『心で勝て。次に技で勝て。ゆえに練習は実戦。実戦は練習』 八木 智哉 (北海道日本ハム 投手) 今年の日本ハムは強かったですね。 でも、この強さは彼なくしてあり得なかった。と言っても過言ではありません。 「正直、こんなにやれるとは・・・。プレッシャー? ないですよ。挑戦者ですから。」 ルーキーとは思えない強心臓。そこには八木流の方法があるようです。 試合前、必ず創価大時代の指針を心で唱えてからマウンドにあがるそうだ。 心で勝て。次に技で勝て。ゆえに練習は実戦。実戦は練習。 不思議と心が落ち着く。八木投手がこの「魔法の言葉」を心の中で唱えたとき、 ただのルーキーではなくなるのです。 まぁ、彼だけではないですけどね。 土の中に眠っていた北海道の夢を地上へと押し上げたのは若い力でした。 20歳のダルビッシュ投手にルーキーの武田勝投手。 30歳ながら2年目でストッパーを務めたマイケル中村・・・。 25年前、ダルビッシュも八木もこの世に生を受けていない。 そんな若い世代の信じられないエネルギーが日本ハムを支えた。 日本シリーズもアジアシリーズも怖いもの知らずの若さの特権! その勢いで頂点まで上り詰めたのです。 彼の活躍なくして今年の日本ハムはあり得なかった。 そう、八木投手には「魔法の言葉」があるから・・・。 二年目のジンクスも関係なさそうですね。 2006/12/04 |
『プレッシャーがかかる場面で出る力がその選手の実力』 城島健司(シアトル・マリナーズ 捕手) 心身ともに負担の多い捕手で2割9分1厘、18本塁打の成績。 本人は「率直に、もっと勝ちたかったですね」と言っているところをみると まだまだ物足りなさを感じているようです。 6年連続年間200安打を達成したイチロー選手に 「素晴らしい。僕にとっては神の領域」と尊敬の念を表しています。 でも、200安打がかかった打席では「打ってきて下さいね」と声もかけたという。 逆に3割がかかっているときには「ジョー、乗せて来いよ」って言われるそうです。 節目の数字や打率3割到達がかかる打席の前は、 互いに声を掛け記録を意識させるという。 つまり、「ノープレッシャーでやったことは実力ではないって、お互い思ってるんで」 という言葉から、スポーツ選手が持つ本当の実力が計り知れる言葉だと思います。 「プレッシャーがかかる場面で出る力がその選手の実力」と さらりといってのけるところに城島選手のすごさを見た気がします。 1年目を終え「もっと打ちたい、勝ちたい」と、長いシーズンの疲れは見えない。 もっと打ちたい、もっと勝ちたい、という強い気持ちだけが、 最終戦を終えた城島から伝わってきました。 来期はもっとやってくれそうですね。 2006/10/23 |
『何回やっても強い自分にはなれない。 むしろ自分の弱さしか見えてこない。』 イチロー (シアトル・マリナーズ外野手) 2006年9月16日のロイヤルズ戦で、1900年以降の近代野球では 2人目となる6年連続年間200安打を達成した時の言葉です。 「重かったですね。もう解放されました。 リラックスする瞬間なんて、この日を迎える以外にないですからね。」 自分にプレッシャーをかけ、自分を高め、そして乗り越える。どんなときも、何をやっても、 重圧という言葉は、まるでイチロー選手のためにあるかのようです。 「WBCに出ることで公式戦が駄目だったらそれまでの選手だった、ということ。 しっかりできると思うから、出る。」 そんな決意を語ったのは、王ジャパンの福岡合宿を控えた今年の2月でした。 あれから約7カ月。「ああ言ったからにはやらないと、という気持ちはあった。 それを示せてよかったと思う。」 そう言える自分に少しだけ安堵しながらも、既に次の重圧と戦っているのです。 イチロー選手が目標とするシーズン200安打は、心身の安定を最もよく示しています。 打率3割や30本塁打は、多少の故障欠場でも達成の可能性はあります。 100打点や100得点は、チーム状態に左右されます。 200安打は、シーズンを通して毎試合「自分ができる限りの準備ができたかどうか」を 実感できる尺度だと思います。パフォーマンスを安定させるための肉体管理。 体調を整えるための日々の習慣。 それらの単調な繰り返しに耐える気持ちの強さといったら想像を絶します。 そして、そのすべてが密接に結び付き、200安打に届くのです。 今季から同僚の城島選手は、「素晴らしい。僕にとっては神の領域」と尊敬の念を表し、 「何かを達成しなければという使命感は非常につらい。 僕がそばで感じるよりもしんどかったと思う」とも。 来季は近代野球では最長となる「7年」を目指す。 しかし、本当は何(どこ)を目指しているのだろうか・・・。 2006/9/19 |
『厳しい状況に置かれたが、 崖っぷちに立ったときにどれだけ頑張れるか。 人生に置き換えても起こりえることだ。』 ジーコ監督 (元サッカー日本代表監督) ドイツワールドカップ(2006年6月12日)の豪州戦で悪夢の逆転負けを喫した サッカー日本代表が練習を再開したときのミーティングでの言葉です。 次のクロアチア戦に勝たなければ1次リーグ突破は絶望的という崖っぷち。 神が示した決断は豪州戦の3−5−2ではなく4−4−2。 イチかバチかのかけといえるかもしれない。 しかしクロアチアに勝たないと1次リーグ突破は絶望的になる…。 「相手とウチの布陣を考え、中盤を1枚増やしていくということ。 絶対に勝つには、これが最高の方策と考えた」。ジーコ監督が一気の攻めに転じ、 何が何でも決勝トーナメントへの扉をこじ開ける。そんな意志が伝わってきました。 しかし結果はドロー。極めて厳しい状況にたたされたのです。 そして母国ブラジル戦を前にしたジーコ監督の言葉。 『髪の毛1本でも可能性が残されている限りわれわれは戦い抜く』 逆境にも負けない強い意志を感じる印象的な言葉です。 最低でも2点差以上の勝利が決勝トーナメント進出の条件とされた一戦は、 前半34分にFW玉田圭司選手が左足で先制弾。しかし・・・、 同ロスタイムにFWロナウドに同点弾を許してから地力の差を見せつけられた。 1次リーグ最終戦でブラジル代表に1−4で敗れ、奇跡は起こらず 無念の1次リーグ敗退が決まりました。 そして、中田英寿選手の引退発表。オシム氏の日本代表監督内定。 日本サッカー界は急ピッチで変革を迫られています。 私見ですが、日本が進歩した以上に世界は進歩していた。 ジーコの4年間を無駄にしないためにもW杯戦士には オシム体制でも、ぜひぜひ頑張ってほしいと思います。 2006/7/13 |
『努力は人を裏切らないと感じました…』 巻誠一郎 (日本代表FW J1千葉) ドイツW杯登録メンバー発表で落選を覚悟していたFW巻誠一郎(J1千葉)選手の言葉です。 W杯予選を1試合も経験せず昨年7月に代表初招集されてから約1年、 努力家のストライカーが日本中に勇気を与えてくれました。 「努力は人を裏切らない」すごく実感がこもっている言葉ですね。 巻選手は自分が選ばれるとは夢にも思っていなくて、 ホテルでは客観的にテレビ画面を眺めていたとか。 「ホント“選ばれてびっくり”というのが正直なところ。 厳しいのは分かっていましたからね。でも多くの人がぼくを応援してくれていた。 ぼくがあきらめたら周りの人に失礼だと思ってた。」 実績重視のジーコ監督のスタンスから「選ばれない」と感じるのも無理はありません。 それでも腐らずに努力を続けた結果が実を結んだのです。 これはミラクルでもサプライズでもありません。 そうです、彼のプレースタイル同様にあきらめずに努力した結果なのです。 ドイツのピッチでも泥臭くても「あきらめないこと」を表現し 勝利に貢献してほしいと思います。 2006/5/26 |
『みんながまとまると強くなること…。 超一流が集まって真剣にやった集中力は一つの芸術だと思う。』 三浦知良(サッカー 横浜FC) ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)初代世界一に輝いた王ジャパンの快挙を キングカズは「一つの芸術」と表現してくれました。 「世界一というのはすごい。この野球の世界一はいろんなことを与えてくれた。 あきらめないでがんばる姿勢、みんながまとまると強くなること…。 超一流が集まって真剣にやった集中力は一つの芸術だと思う。」 誤審に泣いても不満を飲み込んだ。3度目の韓国戦で見せたリベンジ魂。 日本代表に最後の決戦の舞台を与えてくれたのは 「あきらめないでがんばる姿勢」 一人一人の勝ちたいと思う気持ちだったのでしょう。 「何があってもやってやる、そんな気持ち。ケガしようとも、そんなことは関係ない。」 ケガしたら所詮それだけの選手、だから目いっぱいやりますよ。 あるTVインタビューで、そう言っていたイチロー選手の言葉を思い出しました。 私も逆風に負けない「あきらめないでがんばる姿勢」を持ち続けたい。 そう思うこの頃です。2006/4/18 |
『もし、かなうのであれば…。 このチームでメジャーリーグで1シーズンやってみたいぐらい、 そんな素晴らしいチームだったと思います。』 イチロー(2006年WBC日本代表) ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)初代世界一に輝いた王ジャパン。 2006年3月20日(日本時間21日)決勝で日本はキューバを10−6で破り、 初代王者に輝いたのです。球場に大きな日の丸が揺れナインは歓喜。 王ジャパンを世界の頂点へと引っ張ったのは、もちろんイチロー選手。 決勝でも自らのプレーでチームを鼓舞した。五回には左翼線二塁打を放ち、 5点目のホームを踏んだ。1点差に詰め寄られた九回では 一、二塁間を破るダメ押しタイムリーで世界一を決定づけた。 最後の最後まで背負い続けた“日の丸”の誇りと重圧。 歓喜の輪で誰かまわず抱きつき、 まるで子どものようにはしゃぎまくっている姿が印象的でした。 「ずっとチームの先頭に立ってくれた。オレがメジャーリーガーなんだという プライドを持った野球への取り組みがすばらしかった」。 決戦前日の決起集会でイチローを自らの横に座らせた王監督も 彼の存在なしにこの栄誉がなかったことは、誰よりも知っている。 金メダルを誇らしげに掲げ、約1カ月に及ぶ熱き戦いは歓喜で幕を閉じました。 「素晴らしい仲間と野球ができて本当にうれしい。 みんなで喜べることはいいなと思った。それを思いださせてくれて感謝している。」 世界一の仲間たちと勝ち取った世界一の称号。 孤高の天才は最後まで感情そのままに、最高の笑顔を見せてくれました。 日の丸を掲げ、それぞれが最高の笑顔で、そして世界の頂点に酔いしれた。 個から和へ。試合を重ねるたびにチームが結束し世界一に輝いたのです!2006/3/30 |
『SAMURAI BLUE 2006』 ジーコ・ジャパン(ドイツW杯サッカー日本代表キャッチフレーズ) やはり日本にはサムライ魂! 日本サッカー協会は2006年1月27日、ドイツW杯イヤーの日本代表キャッチフレーズ 『SAMURAI BLUE 2006』を発表しました。 ジーコ監督の表情は“日本人のように”誰よりも真剣でした。 「選手たちはこれまであきらめず戦ってきた。 彼らの中に持っているサムライ精神がこの言葉に反映されている」 昨年11月に初披露された新ユニホームでは「日本独自のものを」という ジーコ監督の要望で、日本刀の刃文(はもん)をイメージしたデザインが施されました。 これに続く『SAMURAI』。 まさにジーコイズムを今度は言葉で表したものにほかなりません。 今後、青いユニホームのサムライは、本番まで計9試合を重ね、 W杯という“合戦”に向けて刀の切れ味を高めていくことに・・・。 代表戦会場などで今後寄せ書きされる青い巨大な旗。そこに書かれた 新キャッチフレーズの右上に、ジーコ監督は迷わずポルトガル語でこう記したそうだ。 『6月、蒼きサムライがドイツの地で世界を震撼させる。』 “蒼き大和魂”で世界を斬る!ジーコジャパン。 何だかゾクゾクしてきましたね。6月が待ち遠しい。 2006/2/03 |
『結局はどこへ行っても自分次第。 頑張って結果を出せばいい。 今行かないとチャンスはそうないと思った。』 大黒将志(G大阪→フランス2部リーグ・グルノーブル) G大阪・大黒選手が晴れ晴れとした表情でフランス移籍を決意しました。 フランス2部リーグ・グルノーブルに移籍したFW大黒将志選手が2005年1月10日、 ホームスタジアムで行われた入団会見。郷に入れば郷に従え。 フランス語での決意表明には好感がもてました。 「ボンジュール(こんにちは)」と切り出した後も覚えたてのフランス語が続く。 「はじめまして、大黒将志です。たくさんゴールを決められるように頑張ります」 と、たどたどしさも地元メディアからは好感触のようでした。 「海外で踏み出すにはフランスリーグはいい。僕も上がっていきたい。」と W杯開催地ドイツへとつながる道のりを、フランスの地から踏み出すことを選びました。 この時期の移籍はどの選手も敬遠しがちですが、 彼は「死ぬ気で頑張ってきます。」と言い残して日本を旅立ちました。 「W杯直前で環境が変わっても、あんまり不安はない。今行かないとチャンスはそうない と思った。それに(結局は)どこへ行っても自分次第。頑張って結果を出せばいい。」 そうですね。結局は自分次第。ぜひこのチャンスをものしてほしいです。 新天地での背番号9のゴールシーンが見られる日も そう遠くはなさそうですね。 2006/1/15 |
『もう1度、野球をやりたいと心に決めて、 地元大阪、手を差し伸べてくれたオリックス、 育ててくれたパ・リーグ、プロ野球ファンのために、 来季は大阪で精いっぱいプレーしたい。』 清原和博(プロ野球 オリックスバッファローズ) 去就が注目されていた清原選手が昨年12月20日、都内のホテルで会見し、 オリックス入りを正式に表明しました。 「おまえの最後の花道はおれがつくってやる」とオリックス入りへラブコールを続けてくれた 仰木彬前監督(享年70)が昨年12月に亡くなり。その恩義に報い、地元大阪、パ・リーグ プロ野球ファンのために、オリックスでプレーを続けることを決断しました。 「男の約束」彼はそう言いたかったのでしょう。オリックス決断へ仰木氏からの言葉、 命をかけてグラウンドに立ち続けた姿が大きく影響したのは容易に想像できます。 昨年オフ、巨人残留か移籍かで揺れた際、 仰木氏は心から消えることのない言葉を残してくれた。 「最後はオレと一緒に地元大阪でやる。いいかキヨ、これは男の約束だからな」。 その恩師の訃報(ふほう)をハワイで聞いた清原に、迷いはなくなった。 巨人から8月下旬に戦力外通告を受け。複数の球団とも極秘に接触した。条件次第で セ・リーグ球団も水面下で調査した。だが彼は恩義を忘れることはできなかったのです。 「とにかく大阪に帰ってこい。おまえの最後の花道は、オレがつくってやる。 その言葉が心の中に一番残ってます。 大阪でプレーすることを天国の仰木さんにご報告したいです」。 仰木氏の“遺言”に、男・清原が浪花節でこたえた。まさに「男の約束」だったのでしょう。 プロ21年目を迎える清原選手、地元・関西で“番長伝説”の最終章を飾ることに。 手を差し伸べてくれたオリックス、育ててくれたパ・リーグ、そしてプロ野球ファンの のために、大阪で精いっぱいプレーしてほしいと思います。 2006/1/03 |
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