スポーツコラム 【29話.「文句言うな」の遺言守りサイン 橋本武広】
年俸大幅ダウンを不服として移籍志願していた西武橋本武広投手(35歳)が12月27日、父の遺言を守り、2度目の交渉でサインしました。15日に1度目の交渉を行ない、1500万円減の球団提示に「必要としてくれる球団に出してくれたほうがいい」と過激発言で保留していた。だが18日に、その発言を耳にした青森の父康夫さんから電話が入ったそうです。
がんと闘う病床から「プリンスホテル時代から西部にお世話になっているのだから文句を言わずに頑張れ」とひと言。康夫さんはその言葉を残し、翌19日に61歳の若さで息を引き取りました。そして、27日2度目の交渉を20分で終えた橋本選手は「歩くのも大変なはずのおやじが、かすれた声で電話をくれた。遺言通り、1年でも余分に頑張る」とさっぱりした表情で話した。
小野球団社長も「ほろりとさせられたが、彼もすっきりと押したいと希望したので前回の提示通りにさせてもらった」。球団にも問題発言を謝罪し、父の死を乗り越え来季の活躍を誓う橋本選手。身長167センチ、と小柄ながら5年連続で55試合以上に登板したタフな体。「小さくても丈夫に生んでくれたおやじに感謝します」と話す。
いつまでも、その感謝の気持ちを忘れずに活躍してほしいと思いました。
それでは、皆様にとって来年も良い1年でありますように。。。 1999/12/28
スポーツコラム 【28話.本当の市民クラブを目指す 奥寺康彦】
横浜FCのゼネラルマネージャー(GM)を務める奥寺康彦氏(47歳)は、自信を持って来季以降を見据えている。就任のきっかけは今年1月、Jリーグ市原などを通じて付き合いがあったリトバルスキー監督(39歳)からの「やってくれないか」という電話だったそうです。「市民からのサポートで大きくなるクラブ、というのが魅力的だった。
時間がなかったので不安を感じてる暇はなく、すぐに行動に移した」。自ら選手の勧誘の電話をかけることから始めた一年。現場は監督に任せ、スカウトはもちろん、スポンサー探しにも歩き回った。「周囲もよくやってくれて、一年目の割にはよくできた」と、手ごたえを感じている。熱狂的なドイツのブンデスリーグで活躍した日本人初のプロ選手、そして海外選手の先駈け。本物のプロサッカーを知るかつての名選手の目には、横浜FCの未来がしっかりと映っているようです。市民に支えられるチーム。それは、他のJチームやきっとプロ野球チームだって目指しているはず。日本初の市民クラブのGMという仕事に確信を持ち、心から楽しんでいるようです。
もっとも横浜FCは、まだ本当の市民クラブには」なっていないと言う。「もっと市民に試合を見に来てもらいたい。今の応援はすごく温かい。怒っていても「しっかりやれよ」とサポーターは言ってくれる。罵声はない。そういった雰囲気を多くの人に感じてほしい」。試合に来てもらうためには「結果しかない」と断言。先の天皇杯3回戦ではJ1のV川崎に健闘しました。「試合で結果を示せば、応援してやろうかなと思ってくれる。そうゆう一つ一つの積み重ねが目標を実現させる」と力強い。契約は2002年まで。日本初の市民クラブという舞台で、再び挑戦を始めた。そして「J1入り」という最高の答えで結果を出すつもりだ。
「まちがいなくJに上がるよ」この言葉に自信がみなぎっているようです。 1999/12/22
スポーツコラム 【27話.スピード志向の小柄な選手 田中一徳】
プロ野球の横浜から1位指名を受けた田中一徳外野手(18=PL学園)が12日、契約交渉を行ない正式契約を結びました。セールスポイントは現役選手で最も低い身長165センチと、その小さな体が生み出す球界最速の50メートル5秒6の快速。小柄でも秘めた闘志は計り知れない。田中は胸を張って身長コンプレックスを笑い飛ばした。「ハンディとは思いません。ただ、大きい人には負けたくない。そういう意味ではプロでは全員が敵です」。その闘志だけではなく、小さな体に秘められた運動能力は抜群。スピードなら球界でも1、2を争うことは間違いないでしょう。育英中2年のとき飛び入り参加した陸上競技の市民大会100メートルで11秒1で優勝し尼崎市中学記録を塗り替えたほど。父修さん(48)は駅伝をはじめとする陸上長距離界の名門・報徳学園で長距離選手、母昭子さんは短距離選手でともにインターハイに出場したアスリート一家。「決して走るのが好きなわけじゃない。遺伝だと思います」と、田中選手は「血統」に感謝した。
体脂肪は11%。165センチ、63キロの小兵サイズも、スピード志向の田中選手にとってみれば理想体型といえそうです。高卒ルーキーながら、守備と足だけなら即戦力の評価をもらっている。「すぐに1軍で通用する。彼が守りに入れば外野は2人でもいいと思っている」と俊足を生かした究極の守備シフトさえ描くほどです。打撃センスも捨て難く、高校2年の夏の甲子園では横浜高校・松坂大輔(現西武)投手から4安打をマーク。松坂選手が借りは「必ず(プロ)で返す」と一目おく。2月1日のキャンプインは1軍スタートが濃厚。背番号は「体が小さいから2ケタは似合わない」との願いかなって「9」に決定。1年目から勝負、盗塁王を狙ってみたいとセ・リーグ初の新人盗塁王に夢を膨らませた。
精かんな顔つきが「プロ向き」と感じました。横浜ベイで外野の一角に食い込めるか、来シーズンの楽しみが増えました。 1999/12/13
スポーツコラム 【26話.平成の牛若丸十両陥落で決断 舞の海】
元小結で西十両10枚目の舞の海関(31歳=出羽の海)が九州場所千秋楽の11月21日、引退を表明しました。東幕下筆頭の若光翔関(24)に寄り切られて十両から陥落が決まり、9年半の土俵生活に別れを告げた。171センチ、97キロの小兵ながら、後ろに下がる立ち合いや八そう飛びなど奇抜な技で人気を博した。
今場所は左足首とふくらはぎをケガし、6勝しか挙げられなかった。引退後は協会へは残らず退職するそうです。残留を確実にするには7勝以上が必要で、12日目まで6勝6敗の五分も、13日目の水戸泉戦で寄り寄り倒された際に左足首の靭帯を損傷、左ふくらはぎも肉離れを起こし、窮地に追い込まれた。14日目は休場して千秋楽にかけたが、痛み止めを服用し、テーピングしても無理だった。「ケガで自分の相撲が取れず残念ですが、1場所でも十両でという夢以上のものを達成し、思い残すことはない」。小兵力士の目標となり学生相撲出身者が続々と角界入りするきっかけを作った。「相撲は体の大小じゃない。小さい人でもチャレンジしてくれれば」と、まだ見知らぬ後輩へエールを送った。
「技のデパート」「平成の牛若丸」といわれ、華麗な技で相撲ファンを魅了した姿はもう見られません。ケガは小兵力士の宿命なのでしょうか、とっても残念な気がします。
1999/12/06
スポーツコラム 【25話.日本人女子選手として初の公式戦 竹本恵】
東京六大学野球新人戦に日本人女子選手として話題の東大・竹本恵(1年)選手が11月4日神宮球場のマウンドに上がり、公式戦に初登板しました。立大の4点リードで迎えた9回表無死、3番手で登板するとカウント2−3から四球を出し、打者1人で降板した。わずか6球、最速は104キロの初舞台にも竹本投手は「楽しかったです」と笑顔を見せ、振り返った。最終回の先頭打者が相手。ブルペンのように腕が振れなかった。
左腕投手竹本の第1球は内角にそれ、ワンバウンドした。103キロの速球。2、3球目も外れ腕をぐるぐる回して一呼吸おいた4球目が真ん中に入った。フルカウント後の投球も外れ、四球となり初舞台は終わった。最速104キロ。全て速球を投げた。「楽しかったです。想像よりホームが近かったし捕手が大きく見えました」マウンドに上がった直後の投球練習では、投げると同時に転んだ。「私、足が短いんで、前に投げた投手との歩幅が合わなくて」捕手山口直選手が「エースと思って思いっきり投げろと」声をかけてくれた。登板司令を出した三角監督は「左で変化球を投げる技術もある。話題じゃなく、投手として可能性があるから使っているんです。でも、まだ評価の段階ではない」と話した。終始カメラの標的になるなか、竹本投手は「1人でも投げられていい経験になりました。これを次につなげたいです」と前向きに語った。
テレビニュースで見ましたが「しなやかなフォーム」で、場慣れしてくれば、コントロールも良くなりそうな印象を受けました。どこまで成長するか楽しみ、応援したいと思います。
1999/12/01
スポーツコラム 【24話.自分のペースで走りきれた!ハイペースで圧勝 山口衛里】
シドニー五輪女子マラソン日本代表の国内選考レース、東京国際女子マラソンは11月21日、東京・国立競技場を発着点として、外国招待選手8人を含む301選手が参加して行われ山口衛里選手(26=天満屋)が2時間22分12秒で初優勝しました。
高橋尚子選手(積水化学)が持つ2時間21分47秒の日本最高記録に次ぐ日本歴代2位の高記録。山口選手は、スタート直後から飛び出した千葉真子選手(旭化成)をマークし、15キロ手前から逆に千葉選手を引き離してそのまま独走する圧勝でした。26歳の新星が五輪代表に大きく前進。好物の甘いものも断ち、節制を続けシドニーの有力候補に名乗りをあげました。山口選手は「自分のペースで走りきれた」と充実感を漂わせた。
最初の5キロを16分18秒の驚異的なハイペースで入った千葉選手と競り合い、15キロ手前で単独トップ。30キロまで5キロ16分台のラップを刻んだ。レース終盤も力強い腕の振りで落ち込みを押さえ、2位に5分近い大差をつけた。昨年の北海道マラソンでは2時間27分36秒で優勝。世界選手権代表を狙った1月の大阪では調整失敗で11位と惨敗。悔しさを胸に春はトラックでスピードを磨き、その後は40キロ走を何度もこなしてスタミナも養成した。9月以降は「後は身体の切れを取り戻すだけ」(武富監督)とスピード練習を軸にしたが、ここまでの練習の裏付けが大輪の花を咲かせた。女子マラソン界はここ数年でスピード化の傾向が顕著。「耐久レース」から「スピード持久走」に移り変わろうとしています。その流れに敏感に対応した武富監督、山口選手の見事な勝利と思います。
おめでとうございます。 1999/11/24
スポーツコラム 【23話.世界選手権を制し、次は五輪 井上康生】
父親の指導のもとで、柔道を始めたのは幼稚園児だったころ。「相手をきれいに投げられるのは柔道以外にない」。そんな「一本」の魅力に取りつかれた井上康生(21歳)選手。これまで歩んできた道にはいつも家族があった。昨年の全日本選抜体重別選手権・同級決勝では、同じ100キロ級で競い合う兄・智和さんとの兄弟対決も実現した。
今年6月、母・かず子さんが51歳の若さで急死した。初めて世界選手権の代表に選ばれた2ケ月後のこと。「亡くなった母はこの大会を楽しみにしていた。自分が表彰台の一番上に立っているところを夢見ていたと思う」減量し体を絞り込んで臨んだ世界選手権。「いつも以上に食地面を気を付け、体調を崩さないように調整した」努力で最高の状態のまま世界に挑んだ決勝戦。序盤に指導を受けたが、足技で相手のバランスを崩し、内また、払い腰の得意技に持ち込んだ。自分の勝ちパターンでポイントを奪い優勢勝ち。ついに世界の頂点を極めた。「初出場だったので思い切りいったのがいい結果につながったと思う。母にためにも優勝できて本当に良かった」大会を振り返る声にも気持ちが現れていた。だが「このままのレベルではまだまだ駄目。組み手や体力などすべてにおいて、練習を通じもう一段レベルアップしたい」と、どこまでも貪欲だ。
厚い襟の柔道着が欧州で普及していることについて「握りにくいというのはあまり気にならなかった。試合になればどうにかなりますよ」人として、一流選手としての自信に、満ちあふれています。世界選手権を制し、次の目標は五輪です! 1999/11/15
スポーツコラム 【22話.サッカー人生かけポルトガルへ 前園真聖】
元日本代表MF前園真聖(25=川崎)が10月15日、ポルトガルリーグ1部ギマラエスと仮契約を結びました。ただし、ギマラエスは現在5人の外国人枠が埋まっており、当面は練習生扱いになるそうだ。12月にブラジル人選手の契約が切れて、前園の実力が認められれば本契約。厳しい条件だが、5ケ月間欧州移籍を模索してきた前園はサッカー人生をかけたラストチャンスに挑戦することになる。動向が注目された前園選手にようやくチャンスが巡ってきましたね。かつてサッカーファンを沸かせたドリブラーにギマラエスが受け入れの名乗りをあげたのです。
この5ケ月間、欧州チームの移籍先を探してきたが、アトランタ五輪で世界から注目された男も川崎、サントス、ゴイアスと結果が残せなかった現実から簡単にはチームは見つからなかったようです。さらに、今回前園選手がレンタルではなく川崎からの完全移籍を望んだことも、交渉を難航させた。気持ちは焦るばかり、現実を目の当たりにして、いったんは落ち込んだが、ようやくギマラエスとの仮契約まで成立しました。
点に絡むプレーでアピールしたい。本契約はもちろん、結果を残して2002年W杯では代表に入れるようにしたい。ポルトガルリーグへの決意の挑戦が決まり、前園復活への道は開けたばかり。つかんだチャンスは逃がさないでほしい。切れのあるドリブルを武器に、再び日本中を熱狂させてほしいものです! 1999/11/08
スポーツコラム 【21話.イタリアの至宝 ロベルト・バッジオ】
バッジオ2発、国立に詰めかけた5万人を魅了!イタリアの至宝ロベルト・バッジオ(32=インテル)が華麗な技で日本のファンを魅了しました。
10月11日JOMOCUP’99の外国籍選手選抜のFWとして先発。元ブラジル代表MFレオナルド(30=ACミラン)とともに日本選手選抜のDFラインをいとも簡単に切り裂き前半11分に、黄善洪からのパスを右足ボレーで押し込み先制ゴール。さらに同42分にはミドルシュートで2点目。MVPもさらう独り舞台で5万人の観客を熱狂させました。
Jリーグでのプレーを期待する声も高まるばかりですね。「思いついたプレーのなかで、いつも一番難しいものを選択することにしている」というバッジオの華麗な技は90分間サッカーファンを魅了し続けた。
イタリアの自宅の玄関には掛け軸が飾ってあるほどの日本びいき。床の間のある畳の部屋まであるとか。今季所属のインテルではブラジル代表ロナウド、イタリア代表ビエリ、チリ代表サモラノらとのFWポジション争いが激しく、必然的に出番は少なくなっている。
今回の活躍で、かつての輝きを取り戻してほしいです。
そして、Jリーグでのバッジオの雄姿も見たいものです。 1999/11/01
スポーツコラム 【20話.大リーグ方式で新たな船出 湘南シーレックス】
プロ野球の横浜ベイスターズ球団のファーム(二軍)が独立することが明らかになりました。新チーム名も「湘南シーレックス」とし、大リーグ方式を日本球界で初めて導入、地域チームを色濃く打ち出すものです。名称変更の理由を「ファームをフランチャイズのある独立したプロ野球チームとして考え、今まで以上に地域密着したチーム作りを図るため」とし、同時にファームの若手選手がプロとしての意識を高め、技術、精神ともに向上することを目的としている。
新チーム名は「湘南シーレックス」。湘南は全国的にも知名度、好感度も高いことから決まったそうです。大堀球団社長は以前から「湘南」という広範囲なエリアをチーム名とすることで自分達の街のチームという意識を県内の野球ファンにも浸透させたいと話しているそうです。横浜ベイスターズは1992年に他球団に先駆け、前身の「横浜大洋ホエールズ」から企業名を外すなど地域に根差したチームを目指してきました。97年には二軍にフランチャイズ制を導入し横須賀スタジアムを本拠地としていた。そして今回の独立。
ご当地意識(おらが街のチームだ)が今後どれだけ広がりを見せるかが成功のカギとなりそうです。プロ野球は企業名が先行するのが常識ですが、個人的には今回の試みは応援したいですね。地域の活性化につながるような、地元に根差したチーム作りを期待したいですね。 1999/10/27
スポーツコラム 【19話.日本の誇る大型センター 山崎昭史】
サッカー、柔道などオリンピック出場権をかけた戦いが花盛りですが、バスケットボール男子アジア選手権は残念な結果に終わりました。主将でもある山崎昭史(31=松下電器)選手には、あまりにもつらい大会となりました。地元開催の日本は大きな期待をかけられながら、5位という不本意な成績。山崎選手は直前の左ヒジ亀裂骨折が影響し、本来の力を発揮できませんでした。
思いっきり泣くことさえ、かなわず「コートの中で責任を取るべき人間がベンチで何をやっているんだと・・・」。正念場だった2次リーグ3試合で、計31分出場、7得点。8月14日の米大学選抜戦で左ヒジを強打し、はれはなかったものの時間が経過しても痛みが取れず医師の診断を仰いだ、結果は亀裂骨折。本番に向けて上昇をカーブを描いていたコンディションが最終強化試合で急降下しました。小浜監督からは「今回はおまえのチームだ」といわれ続けてきたそうです。平均身長204センチの中国に対抗するためには、216センチの主将を中心に据えるしかないはず。山崎選手の高さに代役はいません。故障した時点で日本の運命は決まっていたのかも知れませんね。負傷のいえない大黒柱は、五輪切符が逃げて行くのを止められませんでした。
特別才能に恵まれていたわけではないと聞きます。練習が、努力が、山崎選手を日本一のセンターに押し上げました。「日本の誇る大型センター」悔しでしょうが次のチャンスまで頑張ってほしい。シドニーへの道は閉ざされたが今回が最後ではないです。次は35歳。
それまで日本の誇る大型センターとして君臨し続けてほしい。 1999/10/19
スポーツコラム 【18話.日本人選手で44年ぶりの快挙 杉山愛】
テニスの全米オープン第11日は9月9日に当地のナショナル・テニスセンターで行われ、
混合ダブルス決勝で第2シードの杉山愛(日本テレコム)マヘシュ・ブパシ(インド)組がノーシードのキンバリー・ジョンソン組(米国)を6−4、6−4で下し、初優勝しました。
日本人選手の優勝は1955年の男子ダブルスの宮城淳、加茂公成組以来44年ぶり、女子では初の快挙です。「彼が引っ張ってくれたから、楽しんでプレーできた」と杉山が言えば、パプシは「いつも笑顔でリラックスさせてくれた」と深い信頼感。アジアのペアが、ついに初の快挙をもたらしました。最近の日本女子テニス界は、杉山選手にかかる期待は高まる一方です。だが伸び悩む。
昨年から今春ケガが続き、4月には世界トップレベルに成長するまで指導したコーチが急逝し、現在のコーチの母親も亡くなるダブルパンチにも見舞われたとのことです。精神的に落ち込み、勝利目前から逆転される試合が続き、世界ランキングも急降下した。だが今年最後の4大大会。シングルスでベスト32に進み、この日の混合ダブルス決勝。楽な試合ではなかった。流れが何度も相手に行きかかりながら踏みとどまった。
もう精神的に弱かった「愛ちゃん」の姿はないですね。「苦しい時はいろんな人に励まされた。今日は愛ちゃんの笑顔は最高だった」と母の芙沙子さんは感激顔。いろんな人に支えられて、スポーツも人間性も伸びていく。これを再認識した人間は更に技術も伸びることでしょう。今後のさらなる活躍を期待しましょう! 1999/10/14
スポーツコラム 【17話.公式戦の方がうまくなる 清水明監督】
「10試合の練習試合よりも1試合の公式戦の方がうまくなるんです」ウ”ィウ”ァイオ船橋 清水明監督(クラブサッカーチーム)の言葉です。もう今年の夏前ぐらいの話題になりますが、すごく印象に残っている言葉なので今回掲載することにしました。
ウ”ィウ”ァイオ船橋は高校サッカー名門・市船橋(千葉)の2軍選手を中心に今春(1999年)結成されました。この年代は技術的にも一気に伸びますし、伸び盛りの時にいかに試合に出るかが、その後のサッカー人生にも多くの影響を与えます。
部員数の多いチームでは試合に出ることが少なく、高校サッカーで埋もれた選手たちが、
クラブチームという舞台でみごと花開く。市船橋・布啓一郎監督がサッカーコーチとして十数年の指導歴のある清水明氏に結成を打診したのが始まりとか。こうして今年2月、初代監督に清水氏が就任し「ウ”ィウ”ァイオ船橋」が結成されました。
日本クラブユース選手権の関東予選ではJリーグのユースチームを次々と撃破し3位に躍進した。「公式戦」という舞台が選手を飛躍的に成長させ、一気に表舞台に登場しました。今回の試みは、高校とクラブの垣根を越えた、まさに新時代のクラブチーム!
優秀で魅力ある選手が次々と生まれることを期待したいです。 1999/10/07
スポーツコラム 【16話.現役続行を決意 横綱若乃花】
引退も覚悟していた横綱若乃花(28=二子山部屋)が現役を続けることになりました。1場所15日制で皆勤した横綱が負け越したのは、1989年秋場所の大乃国以来、史上2人目。不名誉な記録となったが二子山親方とともに時津風理事長に会い進退伺い、現役を続けたい意志を訴え、受け入れられました。
9月27日の横綱審議委員会での休場勧告を受け入れ謝罪、「ご迷惑を掛けて申し訳ありません。また頑張ります」と頭を下げた。休場の猶予期間は来年の春場所まで。進退のノルマは11勝に設定されたとか。
まずは、体を万全に治して復活を目指すことになるでしょう。どの世界にもルールはあるし従うのは当然。でも本人の意思を尊重することも大切。結局、もう一度「強い横綱若乃花」になることが迷惑を掛けた方への恩返しとなるでしょう。ファンとしては、また若乃花の相撲をみられることになりました。
自らの人生哲学を貫いた横綱が、次の土俵で本当の進退をかけることになった。28歳はまだ若い、横綱の意地で完全復活を期待したいですね! 1999/10/01
スポーツコラム 【15話.五輪切符を決めた一振り 平間淳】
シドニー五輪野球アジア予選、決勝リーグ初戦の台湾戦で、日本代表チームはサヨナラ勝ち(2−1)しました。9回裏、2死2、3累から代打で登場した平間淳(24=東芝)選手。カウント2−1と追い込まれたが148キロ内角低目の直球をジャストミートしライナーで左翼線を抜けた。1打席、ひと振りに全ての思いを凝縮したみごとな一打でした。
「松坂が一生懸命投げていたので、絶対打ってやろうと思っていた。最高です。」苦しみながらもつかんだ勝利でシドニーへの道が見えてきた瞬間でした。
平間選手は神奈川県の横浜高校OBで松坂大輔投手(西部ライオンズ)の先輩。横浜高校時代は主将として活躍し、春の甲子園選抜大会にも2度出場、法政大学でも3番・遊撃手で大学選手権1度、リーグ戦も4度の優勝を果たした。今年5月初の日本代表入り。今秋のドラフトに向けプロ入りの意志を表明しました。
平間選手のように勝負強いバッターがプロに行くのは楽しみ。どの球団でも十分力を発揮できるはずです。 1999/9/28
スポーツコラム 【14話.うれしい・・・でも悔しい 市橋有里】
陸上の世界選手権(セビリア=スペイン)の女子マラソンで銀メダルを獲得した市橋友里(住友VISA=21歳)選手が9月9日帰国しました。成田空港での会見には大勢の報道陣が詰め掛け、少し照れながらも「うれしいですが、いまでも悔しいという気持ちは残っています」と話した。
21歳の市橋さんはマラソン挑戦4度目ながらベストの2時間27分2秒をマークして2位に入りました。それでも、レース終盤にチョン・ソンオク(朝鮮民主主義人民共和国)選手に競り負け優勝を逃がしただけに、「体が細いので、もう少し筋肉を付けて、たくましい体にしていきたい」と今後の課題を挙げた。
来年のシドニー五輪については「もしオリンピックに出られるようなら、もっと力を発揮できるように頑張ります」と話し、金メダルは?の問いかけにも「金メダルですか、とれると思います」ときっぱりと言い切った。あどけない表情と裏腹に、この自信たっぷりの言葉、女子マラソン界の新時代の幕開けの予感を感じます。
思わずシドニーでは日本人選手のワン・ツー・スリーフィニッシュを想像してしまいました。
「うれしい・・・でも悔しい」スポーツ選手の心理が、とっても素直に出ている言葉だと思います。それにしても女子マラソン界はニュースターの宝庫ですね! 1999/9/22
スポーツコラム 【13話.アジア最速、夢はシドニーで! 伊藤浩司】
アジア最速の男、伊藤浩司選手(29歳富士通)が世界に力を示す時がきた。
100mで10秒00、200mで20秒16の日本記録、アジア大会三冠王といった実績を引っ提げ世界のファイナリスト入りに挑戦したのが8月26日の男子200m。
この種目で日本人選手初の決勝進出をかけて準決勝1組に出場、結果は20秒51の6着に終わりました。
男子100mに続きファイナリストは逃したものの、疲労などと闘いながら健闘、今後も欧米を転戦しながら来年のシドニー五輪を目指とのことです。
20秒51、伊藤選手の夢ははかなく消えました。100mで痛めた左足付け根の痛み以上に、ピークに達していた疲労が本来の走りを損なわせたようです。
だが「世界を回った上で活躍するのが陸上競技。そうして力を維持していくつらさはボクにしか分からない。これをよくかみ締めたいんだ」。年齢的に厳しいのは承知の上。それでも挑戦する姿勢を決して捨てない。
92年バルセロナ五輪では日本代表として現地入りしたが、控えに回され出場できなかった。そこで味わった屈辱が伊藤選手をさらに成長させたと聞きます。
9月15日の「スーパー陸上’99」では、ここ数日は毎日のように点滴を打つほど最悪の状態ながらも、第一人者としての責任を果たすため男子100mに気力で出場しました。
競技で生計は立てられないでしょうが、伊藤選手はほんとうにプロ意識が詰まったスプリンターだと思います。残念ながら、10秒69の5位に終わりましたが、「来年の今ごろは9秒台を狙える状態でいたい」とシドニー五輪での活躍を誓った。
舞台を南半球のシドニーに移し、蘇れ!伊藤選手。 世界が待っている。 1999/9/17
スポーツコラム 【12話.W杯3度目の哲人 桜庭吉彦】
大好きなラグビーシーズンがやってきました。
第4回ラグビーW杯は10月1日から(英国ウェールズほか)開幕します。87年第1回W杯(オーストラリア、ニュージーランド)出場選手からただ1人の現役、ロックの桜庭吉彦選手(32=新日鉄釜石)は自身3度目の世界舞台に決意を新たにしています。
初キャップから13年が経過。ジャパンのFW陣を支えてきました。「何度でもW杯に出られるのはうれしい。少しでも多くの時間に出場できるように頑張りたい」と言い切った。
32歳のベテランですが、本人は体力的な不安をまったく感じていない。大好きな酒の量を減らし、ベスト体重の105キロをキープ、走り込みの自己練習を欠かさない自己管理は若手選手の見本にもなっている。「引退」の2文字は常に頭をかすめる。だが「現役を続ける気持ちがあればプレーは出来ると思う」。桜庭選手の持ち味はモール、ラックで常に核となって働くFWの職人、黙々とボールを追う泥臭いプレーが身上。ジャパンの一員として動けることが、桜庭選手の現役生活をさらに長くさせている。桜のジャージが活躍する姿が今から目に浮かびます。
32歳、まだまだ老け込む歳ではない、ウェールズの地で吼えろ、桜庭選手。
ジャパンの勝利は桜庭選手が引き寄せてくれるはずだ!
1999/9/13
スポーツコラム 【11話.奇跡のカムバック 盛田幸妃】
復帰への第一歩、昨年九月、脳腫瘍の除去手術を受けたプロ野球(パ)近鉄バッファローズの盛田幸妃投手(29歳)が8月26日、ウエスタンリーグの中日戦(藤井寺球場)に約1年ぶりの実践に先発し2回7打者に対して1安打無失点と好投しました。
手術後は手も足も動かなかった状態「手術した時は社会復帰はできても野球は無理だろうという感じだった。」と奇跡ともいえるカムバックの感想を口にした。全盛時には150Km近かった球速は今は139Km止まり、「現時点ではしょうがない、スピードはいずれ147、8Kmは出ると確信している」
術後は多難なリハビリ生活だった。当初は箸を使うこともでなかったし、右手にスプーンを持つがすぐに落ちてしまう。腫瘍が脳神経を圧迫して手足の自由がきかなかったそうです。現在もまだ右足にまひが残っているため、ねんざ予防の装具をつけているとのこと。
地獄のように苦難の日々。「それでも絶対にマウンドに戻る」気持ちが支えだった。
小林二軍バッテリー総合コーチは「再スタートの地点にようやく立ったということを忘れないように。これからが彼の勝負どころ」と厳しさを含んだエールを送っているそうだ。
本人も「一軍にあがった時が完全復帰」と心得ている。
おそらく今季中の登板は難しいだろうが「来年は自信がある」と難病からの「完全復帰」に自信をみなぎらせている。
彼を支えた周りの方も大変だったことは容易に想像がつきます。特に家族の方は神経を使ったでしょうが、いずれ一軍のマウンドに復帰できることを願っています。
一回り成長した盛田投手を早く見たいです。 1999/9/08
スポーツコラム 【10話.天才ボクサー、浪速のジョー 辰吉丈一郎】
8月29日に日本人初の三度目の返り咲きを狙う辰吉丈一郎(20=大阪帝拳)選手がチャンピョンのウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)に7回44秒、TKOで敗れ、試合後に現役引退を表明しました。
14年のボクサー人生で初めて恐怖を感じた。全てをかけた復しゅう戦は惨敗だった。
「コンディションは万全。自信を持ってリングに上がったんやから、それだけウィラポンが強かったんでしょ。」ダウンこそなかったが試合は壮絶だった。
「2度同じ相手に意識をなくさせられるやなんて、、、まあ、辞めた方がいいでしょうね。女房、子供のことを思うとね。これ以上体を壊したくない」
網膜剥離を認めない日本ボクシングコミッション(JBC)を説き伏せての再起など、いくつもの障害を乗り越えてきた「20世紀最後の名王者」の最後の試合は亡き父とともに散った。「ボクシングという職業は終わったが、辰吉はまだ終わってない」と意欲的に語ってくれたが、何か寂しさを感じました。さようなら「天才ボクサー、ジョー」
そして、再び復活してくれることを願っています! 1999/9/03
スポーツコラム 【9話.世界最速(スーパーアスリート) モーリス・グリーン】
世界陸上セビリア大会でモーリス・グリーン選手(25歳=米国)が男子100m決勝で9秒80で2連覇を達成しました。
スタートで出遅れたがラスト20mでの爆発的な走りで自身のもつ世界記録9秒79にわずか100分1秒と迫る9秒80での制覇でした。何度見てもあの走りはすごいです。
96年の自己ベストが10秒08の男が、ジョン・スミス・コーチのもとで才能を開花させ、わずか3年足らずで「世界最速」の勲章をつかんだことになります。
97年のマシントレーニングで鍛え上げ、でん部から背筋、ハムストリング(太腿の裏側)の筋力が発達、陸上競技関係者からは「筋肉のよろい」と形容される肉体を持つまでになった。次なる目標は五輪制覇、そしてアテネで公言した「9秒76」への挑戦。
無敵のグリーンはさらに進化し続ける。 1999/8/30
スポーツコラム 【8話.日本にプロ意識を伝えたサッカーの伝道師 ラモス瑠偉】
昨年限りで川崎を退団したラモス瑠偉選手が8月23日「引退試合」で26年の選手生活と
22年間の日本でのサッカー人生に別れを告げました。
この日は国立競技場に詰めかけた4万8千人のサポーターの前で、往年の華麗なパスワークを披露、試合も3−1でラモスオールスターズが快勝しました。
「本当に22年間はあっという間でした。初めてこの国立で試合をした時、観衆はたしか300人か400人でした。今こうしていろんな人の努力と協力で、満員のファンの前で引退試合ができました。私は本当に幸せです。本当に感謝しています。」
日本サッカーに本物のプロ意識を伝えた伝道師の言葉が、感激に震えていました。
日本で生きることを運命づけられたサッカー人生、最初は「ただお金のためだけに」日本にやってきた。しかし、日本でのプレー、1年間の出場停止、初音夫人との出会いと結婚、そして子供の誕生と、年々日本への理解と愛を深めていった。32歳で帰化。W杯を夢見てきた。現役生活は終わっても、サッカーにかける情熱に終わりはない。
「もう一度生まれ変わったら、もう1度日本に来て、早く帰化して(笑い)もう一度、W杯を目指したい」と涙をこらえて言い切ったそうです。
義理と人情と根性は誰にも負けない。満場の大拍手を浴びて、最後に場内を1周した。
同年代のプレーヤーが引退するのは少し寂しい気もします。今度は指導者として1日も早くフィールドに戻ってきてほしいものです。 1999/8/25
スポーツコラム 【7話.ガンを乗り越えた ランス・アームストロング】
ガンを乗り越え、自転車のロードレース、ツール・ド・フランスで総合優勝したランス・アームストロング(米国)選手が8月10日、ホワイトハウスに招かれ、クリントン大統領から祝福を受けました。
大統領で執務室でクリントン大統領と写真に納まったアームストロングは、「ガンを克服した者は地獄から生還したようなもので、残りの人生に休息を求めてしまう。しかし、生きているのだから、前へと進み続けなければならない」とスピーチしました。
今後、がん患者らを援助するランス・アームストロング基金を設立する活動を続けるとのこと。また、2001年までツール・ド・フランスに参加する意向も明らかにしたそうです。
きっと想像を絶する苦難を乗り越えての勝利だったのだと思います。
あくまで、前向きに生きる姿は、皆に勇気と希望を与えてくれますね。
1999/8/23
スポーツコラム 【6話.投げられないエース、最後のマウンド 浅野貴裕】
夏の甲子園でWataが気になった選手を一人紹介します。島根県代表の浜田高校エース浅野貴裕投手(3年)です。
浅野投手は県大会の準々決勝、邇摩(にま)戦で投球途中に、右上腕部を骨折しました。
この映像をWataは、またまVTRで見る機会があったのですが、振りかぶって投げようとした時に腕がグニャっとなって、何が起ったのか分からなかったです。ただのスッポ抜けのボールのように見えましたが、次の瞬間腕がブラブラして、も〜見ていられない感じでした。そんな右腕を骨折したエースに贈る、浜田高校の甲子園出場だったのです。
甲子園では三角きんで腕をつってベンチに入った浜田高校の背番号1、浅野投手は最後まで笑顔で仲間を励まし続けました。試合は浅野投手のグラブを使用して臨んだ後輩の桑野、木村投手が水戸商打線に打ち込まれ、敗れたのは残念です。浅野投手は「本当に良くやってくれた」と後輩をたたえていました。
八回2死二塁のピンチでは伝令でマウンドへ。「自分が三年間目指したところへ行けるのがうれしかった」という。これが”最後のマウンド”になったが「桑野も木村もしっかり投げたから、僕が泣くわけにはいかない」、投げられなくて「三年間やってきた仲間たちには申し訳ない」と自分を責めていたが、エースは立派にチームの役割を果たしたと思います。
甲子園のマウンドへ一番上りたかったのは浅野くんだったはずです。骨折というアクシデントにも、腐らず仲間に声援を送る姿に「彼は本当に強い人間だな〜と」感じました。
1999/8/17
スポーツコラム 【5話.たった1人の入場行進 横浜高校 松本努】
たった1人の夏−。今回は夏の風物詩、甲子園。横浜高校 松本努主将のお話です。
広い甲子園球場から、自然と拍手がわき上がる。「前年度優勝校、横浜高校」のアナウンスとともに先頭で松本主将(三年)がグランドに入場した瞬間だった。
松本主将は、たった一人の行進です。全国高校野球選手権神奈川大会準決勝で、今回の代表高校の桐蔭学園に敗れて四期連続出場の出場を阻まれたからです。深紅の大優勝旗を手に、グランドを行進する間、昨年のことを思い出したと言います。春夏連続、史上初の三冠達成、無敗記録。。。優勝旗のレプリカを受け取った瞬間「こんなに軽いのか」とあらためて驚いた。
出場校の先頭に戻ったとき「ありがとうございました。」誰に言うでもなく、自分を育ててくれた高校野球に対して、感謝の気持ちが自然と口をついて出た。
横浜高校は、今春の選抜大会に出場したが、PL学園(大阪)に初戦敗退を喫した。「自分達の力で、もう一度校歌を歌いたかった」。春、夏ともに二度ずつ優勝しているが、全員で優勝旗を返還できなかったのは今回が初めてのこと。「先輩達に申し訳ない」と目を伏せた。「やれることだけのことはやった。」胸を張って、立派に返せたと思います。「桐蔭学園には、また優勝旗をもって帰ってもらいたい」エールを送って高校野球最後の日を静かに終えた。
横浜高校の昨年の活躍といえば、記憶(PL学園との死闘、決勝ノーヒットノーランなど)に新しいですね。その重圧に耐えながらの戦いだったと思います。
きっと、この経験は今後の人生に役立つと思います。お疲れ様でした。松本くん!
1999/8/08
スポーツコラム 【4話.日本ラグビーに初の海外プロ 村田亙】
日本ラグビー界に史上初の海外プロ誕生!
今回はWataの大好きなスポーツ選手でもある東芝府中ラグビー部村田亙選手(31歳)です。最も危険な男、日本代表のSHでもある村田選手にチャンス!
そのスピード、瞬発力、俊敏性が優れているため、その分ゲガも多く毎年のように泣かされてきました。すごい苦労人と聞きます。しかし、あの密集の中からスパッと抜ける速さは見ている人を魅了します。
7月5日の記者会見、フランスリーグ2部にあたる1部Bのクラブ「アビロン・バイヨンヌ」への移籍を発表しました。本人の強い意志により東芝府中に籍を残さず10月の第4回W杯が終了後の11月30日に正式退社同クラブと12月1日からの1年半あまりのプロ契約だそうです。今回の決断で、すごいところは「また東芝でやれるという甘い考えがあると会社にも迷惑がかかる」と戻る場所を捨てての挑戦です。
自分の夢に将来の保証は邪魔「自分自身のために頑張りたいと思う」とコメントした。
年齢的にキツイのではとの声には「年齢歯は20歳代後半のつもり、あと2〜3年は大丈夫」と揺るぎない自信を見せている。
想像するに、今までケガに泣かされることが多かった分、自分の体のケアを怠らない村田選手なら、かなり長期にわたり、第一線で活躍できると思います。
日本ラグビー界のためにも、ぜひ成功してほしいですね。 1999/7/25
スポーツコラム 【3話.日本バスケット界の星 田伏勇太】
高校バスケット九冠を達成、夢を乗せて世界へはばたく!
1999年3月28日、米フロリダ州タンパで開催された男子バスケットボール全米ジュニア選抜(二十歳以下)世界選抜戦に、十八歳の若者が日本から初めて出場した。
7月にはポルトガルで行われるジュニア世界選手権の代表に選ばれた。
秋には米国留学を希望している。「不安だらけ。でも自分に出来ないことを、いろいろ経験したい」とあくまで前向きに語る。バスケットボールを愛するすべての人達の夢を乗せて世界へ羽ばたく日は近い。
田伏選手は神奈川県横浜出身。中学卒業時「強いところでやりたい」と進学先を秋田県の名門能代工高を希望した。自分が将来どうなりたいかを明確にイメージ出来ていたから、こその決断だったのだろう。 思い切って挑戦してほしい。 1999/6/25
スポーツコラム 【2話.野村阪神の変貌】
昨年まで負け癖のついていた阪神がついに首位に立った。いったい阪神に何が起こったのか?そして、野村TOP野球の神髄とは...
今年の阪神の強さは逆転勝利の多さからも見ても驚異的な粘りにあるようだ。次から次ぎへと新戦力も出てきているようだし、これは偶然ではない。競争意識が仲間意識を上回り危機感をもった選手が多くなり結果として、チーム全体のレベルがかなり底上げされたようだ。
ケガでもしたらチャンスとばかりアピールする選手、やっともらえたチャンスは逃がさないと必死になる選手。競争意識こそが、まさに野村TOP野球の神髄でもあるように見えるのだが。 秋に美酒を浴びるのはどのチームでしょう。 1999/6/16
スポーツコラム 【1話.怪物松坂大輔】
神奈川の名門横浜高校から西部ライオンズへの入団。必ずしも自分の思惑とは違ったはずだがプロになるなら今と、大人の決断だったと思う。
強固な意志と練習量がもとになり、誰もが認める天性の素質が一気に開花した高校時代。プロの世界では何を見せてくれるのだろうか?
茶の間では「笑顔がかわいい」など全ての年齢層にファンを持つ。何か憎めない奴「あいつならしょうがない」と思わせる性格。プロになるべくしてプロになった。そんな魅力あふれる松坂選手に、ついつい期待を大きく抱いてしまう。
臆することのない1人の若者がまたプロの世界へ羽ばたいた。
それにしても「時速155キロ」ってどんなでしょうね! 1999.5月
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