スポーツコラム 【特別編.1戦ごとに成長、甲子園で8強進出の横浜高校】
第82回全国高校野球選手権大会に神奈川代表として出場した横浜高校の戦いが終わった。2年ぶり9度目の夏の舞台。ナインは刻まれた伝統に恥じないプレーを見せ、ベスト8まで進出。207校の代表として甲子園を湧かせた熱戦を少しだけ振り返りました。
神奈川大会前には主力の三年生に故障が相次いだ。
エース小沢投手は右肩痛に悩む。
土屋捕手は右足くるぶしを骨折。
中軸を打った遊撃手浜口選手は左手の指の間をスパイクされ二針縫うけが。
あげればきりがなかったそうだ。けがの影響もありチームは二先生主体となった。
だが夏。必死で食らいつく三年の姿があった。それが小沢投手であり、土屋捕手であり、浜口遊撃手だった。1人また1人とグランドに戻ってきた。
「二年と三年がしのぎを削る中でチームが出来上がっていった。大きな目標を得るために痛みは仕方なかったのだろう」。そう渡辺監督は振り返る。
グレーのユニホームをまとった「雑草軍団」は、はい上がった。
偉大な先輩達と同じ舞台に立ち、大観衆を湧かせた、そして堂々と戦った。
成長したバッテリー
「一戦一戦成長している。」大会期間中、渡辺元智監督は口癖のように選手を評価した。8強進出の原動力・エース小沢投手がそうだった。右腕は大舞台で力を伸ばした。
初戦の佐賀北(佐賀)戦。8回3安打1失点で甲子園初勝利。続く鳥羽(京都)戦では我慢の投球、東海大浦安(千葉)には巧みな投球術を見せた。
土屋捕手のリードも光った。初戦は外角を中心に投球を組み立てた。3回戦、準々決勝で強打者が増えるにつれ、内角に見せ球のストレートを配し、外のスライダーで勝負するなど投球に幅を持たせた。小沢投手の好投の陰には土屋捕手の頭脳があったのです。
徹底された打撃
「スター選手がいない。」からこそ全員に徹底された打撃。明暗を分けた試合が合った。鳥羽戦はみごとだった。相手エース谷口投手の低めのスライダーを捨て、直球を打つというベンチの指示が、終盤に生きてサヨナラ勝ちをつかみとった。
東海大相模のエース浜名投手のシュート攻略にも挑んだ。右打者は投球動作に入ると両足を引き、内角を空けてシュートを待った。ヘッドを遅らせ内角をたたくという技術を要求される練習も繰り返した。だが、相手捕手が横浜の戦術を逆手に取った。外角の変化球をうまく使われた結果、3安打。完ぺきに封じられた。勝つための策は講じたがそれが結果に結びつかなかった。あらためて短期決戦の難しさを感じました。
我慢した守備
「心配していた送球ミスが少なくなっていた」渡辺監督は甲子園入りしてから自信を持つようになった。守備は不安を抱えていた。神奈川大会での試合前のシートノックで、スローイングの安定感は低かった。それが甲子園では3試合で1失策。実戦的な守備練習のなかで鍛えられて行った守り。基本動作を徹底的に繰り返した自信が「堅守」につながったのでしょう。松浦一塁手、杉浦二塁手、柳野三塁手の二年生をまとめた三年の遊撃手浜口選手の功績も大きい。周囲にも声をかけるなど内野のリーダーシップを取った。
東海大浦安戦では少しの守備の綻びが敗戦につながったといえる。柳野選手から一塁への送球。松浦選手のタッチプレー、イレギュラーバウンドへの反応。五回の2失点は「ミスしたら負ける」甲子園の怖さを見せつけられました。ただ接戦の中で我慢し続け大崩れしなかったプレーは十分評価されます。けがから戻り、後輩を引っ張った松岡主将をはじめとする三年の気迫。中堅守大河原選手を中心とした二年の非凡なセンス。二人三脚でチームを作り上げた渡辺監督、小倉清一郎部長の指導力。今年のチームほど、一つ一つ小さな力を結集させ甲子園という舞台で持てる力のすべてを出しきった夏はない。横浜野球がまた大きくなった。
東海大浦安戦2−1で惨敗・・・。
「ここまでよくこれた。一戦一戦成長してくれた」と渡辺監督は選手をねぎらった。
「一生懸命やれば勝てる」。そのことを30年以上の監督歴をほこる指揮官が、雑草のごとき選手達に教えられた。「出場できないといわれた甲子園でベスト8。満足感があるのでは?」松岡主将が質問された。「どうしようもないって言われていました。でも負けて、満足感なんかない。」と松岡主将は話す。踏まれても負けない強さ。密度の濃い練習。どん底からはい上がる強さ。
その全てがグレーのユニホームに染み付いて引き継がれていくだろう。 2000/8/22
スポーツコラム 【54話.19場所ぶり10度目の優勝! 横綱曙】
こみ上げる涙
上を向いた
それでもあふれた
「優勝はそれほど大きいものだから」
大相撲名古屋場所13日目(7月21日、愛知県体育館)。3年ぶりの涙のV。横綱曙が執念の相撲で大関雅山を押し出しで下し初日からの13連勝で、19場所ぶり10度目の優勝を果たしました。苦しかった3年2カ月!19場所ぶりに10度目の優勝。横綱として年6場所制となってから史上最長の復活劇でした。
待ちに待った時が訪れた。19場所ぶりの復活V。最高の歓喜を曙は実感できない。土俵下に転がり落ちた雅山をにらみつけて仁王立ち。勝ち名乗りを受けるのも忘れて、ただ呆然。天を仰いで必死にあふれ出す涙をこらえた。
「きょうは泣きました。勝ったらシャキッとしようと思っていたけど・・・。
本当に3年分、うれしい。(辞めて)逃げなくてよかった」
苦しみ抜いた3年間だった。左足太もも肉離れ、腰のヘルニアなど、次々と故障に悩まされた日々。昨年の皆勤は2場所だけ。優勝もままならない相撲人生の崖っぷち。「優勝ができなければ、横綱の資格はない。辞めてしまえばいい」。一部の横綱審議委員から“引退勧告”さえも飛び出し、一時は引退も考えた。「このままでいいのか」。横綱の地位を重さを痛感。屈辱と戦い、自問自答した末の結論はただ一つ。優勝9回のプライドを捨てて、一からやり直すしかなかった。自分のため、そして、家族のためにも・・・。
そして最高の相撲で、完全復活を成し遂げた。右から張り差し。雅山にいなされても、下半身はぐらつかない。冷静に対処し左四つに組み止める。上手を引き付け、執念で土俵下まで新大関を吹き飛ばしましたね。
環境も大きく変化した。夫人のクリスティーン麗子さん(29)との結婚に反対し、後援会が解散。私生活でも“四面楚歌”に追い込まれた。「結婚して、優勝できないと家族がかわいそう」。ケートリン麗奈ちゃん(2)、場所前に誕生したコビー洋一ちゃんのためにも、初心に戻った。東京・羽村の自宅を午前6時に出発して、東京・本所の部屋までの毎日。シコ、テッポウ、土俵上でのけいこに加え、30分以上のウォーキング。激しいトレーニングを自らに課した。
もがき、苦しみ抜いて勝ち取った3年2カ月ぶりの賜杯。「今まで優勝の中で一番うれしい? 本当、うれしいね」。短い言葉に、苦しみからの解放された安どが凝縮した。横綱昇進後からの目標だったV10を達成。円熟期を迎えた曙は、第2期黄金時代の幕を開けようとしている。真価は来場所問われる。 2000/8/12
スポーツコラム 【53話.松坂投手のノーヒットノーラ阻止 片岡篤史】
ノーヒットノーランの夢は、あと3人にせまったところで打ち砕かれました。プロならではの奥の深い読み合いがあったようです。
6月30日の日本ハム−西武戦(東京ドーム)、西武松坂大輔投手の前に立ちはだかったのは、9回先頭打者として打席に入った日本ハム片岡篤史内野手だった。151キロのストレートを見事に中前に運んだ。昨年4月7日の初対決で最速155キロのストレートに空振り、しりもちをついた男は、配球を読み切り「力勝負」で松坂投手の大記録を阻止しました。
カウント2−2からの6球目、151キロのストレート。片岡選手が力強く振りぬいた打球はライナーとなって中前に落ちた。その瞬間、東京ドームを支配していた緊張感が解け、大きなため息と数少ない歓声が交錯。松坂投手の投じた108球目のことでした。予想通りストレートが来た。0.0何秒の違いかもしれないけど、153キロだったら打てなかったと思う。ファウルか内野フライになっていたかも知れない。ポイントはこの前に投じた5球目。外角低目を狙った136キロのチェンジアップがわずかに外れた。2−1と追い込まれていた片岡選手のバットは辛うじて止まった。初球はチェンジアップ、2球目は152キロのストレートだった。ともに空振りして、2−0となった。3球目にボールとなったがこの日最速の153キロストレート。さらに4球目、152キロをファウルして迎えた5球目だった。
あの試合はみんなあのチェンジアップにやられていた。あれ(5球目)を打っていたら遊ゴロになっていたと思う。
見送れた時点で自分に分があると思った。片岡選手はこの時点で6球目をストレートと読んだ。「打たれても悔いを残さないため、勝負は絶対ストレートでくると思った」と振り返える。5球目までの配球から、また常日頃の松坂投手の強気な言動からも、こう読んだ。
中島捕手は片岡の場合はあれだけのスピードが出ていたから、チェンジアップを打たれたら悔いが残ると思いストレートにした。読みはドンピシャだった。更に、シュート回転したことも片岡選手を助けた。「ほんの少しシューと回転した分、バットの芯でとらえることが出来た」と話しています。
中島捕手も「シューと回転したから打たれた」と。。。もちろん追い込まれても「目いっぱい振る」片岡選手の強気な姿勢がこの一打を呼んだといっていいでしょう。
「こっちも悔いを残す打ち方はやめようと思った。それにしても(松坂は)大したもの。最終回に球速が上がってくるんだからすごい。相手が向かってくる感じで来てくれるのはうれしい」と片岡選手。記録を止めた一打は相手を認め、真っ向勝負を挑んだ結果でした。
この2人の対決。まだまだ名勝負が続きそうですね。 2000/7/15
スポーツコラム 【52話.プロ2年目で打率4割をキープ 金城竜彦】
今回はプロ2年目の横浜ベイスターズの金城竜彦内野手(23)です。7月2日の阪神戦の最終打席で左前打を放ち、規程不足ながら打率4割をキープしました。シーズン前にはとても今の姿を想像することも出来ませんでした。「大振りしないことをだけを心がけています」地元大阪では有名な野球3兄弟の末っ子に生まれ。父晃世さん(54=会社員)は元近鉄の外野手だったそうです。1軍出場は1試合だけに終わったようですが、プロで活躍する夢を子供に託しました。
「それこそオギャーと泣いていた頃からバットとボールを握らせていた。3人の中でセンスは一番あって(プロ入りの)予感はあった」と、末っ子にかける期待は当然大きかった。でも積極的に野球を教えた事はない。ただ気を配ったのが食事だった。金城家の朝は米1升の炊き出しから始まる。「家では食事じゃなく「えさ」と呼んでいました。お腹を空かした子供たちのために、量は半端じゃなかった」。
この日、母淑子さんは甲子園のスタンドから頼もしそうに息子の背中を見つめた。淑子さんは栄養のバランスを考え、必ず自らの手を入れて調理した。「料理は一切、手を抜きも妥協もしなかった」毎日のように連れてくる野球仲間にも振る舞った。
いつしか「金城家はご飯お変わり自由で食べ放題だ」と評判を呼んだ。10キロの米袋と5キロの牛肉が1週間でなくなるほど。淑子さんは「エンゲル係数はびっくりするほど高かった」とむしろ誇らしげ。
5月からスタメンに定着し「隠れ首位打者」として脚光を浴びる存在になった。好調の要因は、チーム1、2を争うタフネスぶり。生まれてこのかた大きなケガと病気にも無縁。「野球マニア」と称するように夏場を迎えてさらにハードな練習で体力を養う。初のフルシーズンにそなえて抜かりはないようです。「強い肉体を授けてくれた両親には本当に感謝しています」今でもコンビニ弁当や外食は好まない。理想の食卓で育った屈強なカラダが金城の宝。今までの努力がようやく実ってきました。
横浜ベイスターズの場合は、ほぼ「先発スタメン」は決まっていましたが、すばらしい活躍でその一角を切り裂いた実力は本物であってほしい。またマシンガンにふさわしい選手が台頭してきました。まだまだこれからが正念場ですが、このチャンスをぜひ物にしてほしいですね。 2000/7/04
スポーツコラム 【51話.日本のエースとしてメダル取りに挑む 細谷はるな】
2000年東京アイランドシリーズ第2戦「第12回伊豆大島トライアスロン大会」が6月10日、334人が参加して行われました。女子個人でシドニー五輪代表の日本の第一人者、愛知の細谷はるな(27=ニデック)選手が2時間4分59秒で優勝。シドニー五輪でメダルを狙う細谷選手が女子個人で2位に14分50秒の大差で貫禄を見せました。
「前日まではすごい雨で大島まで来れるかどうか心配だったけど、雨が上がり涼しくていいコンディションでした」と振り返った。3回に分けたスタート。第1グループで100人以上の男子に混じり、紅一点でスタート。「海がすごく荒れてたけど泳いでみたらそれほどでもありませんでした。自分より大きな人達ばかりで、泳いでいるときに上に乗られるかと思ってたけど、紳士的な方ばかりでした。スイムより最後のランのほうがつらかったですね」と笑顔を見せた。
五輪選考会を兼ねた4月23日のアジア選手権では自らの27歳を祝うバースデーV、世界でも8位ランクされた。シドニーでは日本のエースとしてメダル取りに挑む。今回から五輪公式競技に採用された種目だけに注目も日増しに大きくなっている。「今まで頑張ってきた競技が注目されるのは嬉しいですね」と声をはずませる。初めてのトライアスロンは競泳をやっていた兵庫・川西明峰高2年のとき。母三恵さんがやっていたとか。それから10年、日本の代表として五輪に挑む。「シドニーでは皆さんの応援を自分の力にして、目一杯楽しんで納得のいく、いいレースを試合ですね」。
実力をフルに発揮して納得のいくレースが出来たときこそ、メダルに手が届くときだ。
この日はリラックスして走った。「走っている最中に沿道の方だけじゃなく、すれ違う選手達にも応援の声をかけてもらって感激しました」と細谷選手。
4月9日のW杯石垣島大会で、日本人過去最高タイの2位。世界ランクでも代表選考優先順位の世界20位以内を確保している。飯島健二郎全日本監督(40)は「細谷の底力を見た。五輪でも世界の壁をぶち破ってくれると思う」と、既にメダルへの期待も大きい。
4月23日トライアスロンアジア選手権では優勝して五輪当確。27歳の誕生日をアジアの頂点で飾り実力を見せました。
表彰式の後のパーティーでは一緒に走った仲間達に激励のメッセージを寄せ書きした日の丸を贈られ。まわりの仲間達の応援を受けてシドニーでの勝利を目指す。2000/6/24
スポーツコラム 【50話.ド迫力ボレー!一発で欧州移籍か 西沢明訓】
サッカー日本代表に、待望のストライカーが現れた。6月5日ハッサン2世杯では新布陣でワントップに抜てきされたFW西沢明訓(23=C大阪)が、1998年W杯優勝国フランスを相手に芸術的右ボレーを決め、フランス紙で同国のスーパースターMFジダン(27)や中田英寿(23)を超える最高評価を獲得した。2―2で引き分けのPK戦(2―4)で3位決定戦(日本時間7日)に回ったが、決定力不足に泣いてきた日本に希望の灯をともすとともに、自身の欧州移籍に弾みをつました。
日本サッカー界の歴史を塗り替える強烈なゴールでした。ジダン、ジョルカエフ、バルテズ……最強を誇るフランスに、天を仰がせたほどの、芸術的ボレーは、1―1で迎えた後半25分でした。「ベンチに城さん、カズさんとすごい人が見守っていたので恥ずかしいプレーはできない」。そう言い聞かせていた西沢へ、左サイドのMF三浦淳から絶妙クロス。「めっちゃ、いいタイミング」だった。右足で打ち抜き、GKバルテズの頭上を貫いた。欧州選手権(10日開幕)の調整気分だった世界王者を本気にさせる1発だった。
3年間の苦労が凝縮されていた。代表では今ひとつ実力を発揮できないでいました。1997年(平成9年)5月21日の韓国戦。当時20歳の若さで代表デビューしたが、トルシエ監督就任後は選出されても試合での出番はなかった。4度目の正直で挑んだ今回「2日前に、お前でいくぞと言われていた」。通算で約2年9カ月ぶりの代表出場。トルシエ体制では初先発初出場での即答。
トルシエ日本では初めて本格導入されたワントップだったが、西沢にとっては「本籍」C大阪と全く同じ役割。ブランからラフプレーを受け、何度も削られたが動きは少しも鈍らない。確実なポストプレーと鋭いシュート力。前半37分には得意の胸トラップ、振り向きざまのシュートまで披露した。群を抜く存在感にトルシエ監督も「世界トップレベルのプレー。日本選手にとっては革新的なプレーだった」と最大級の賛辞を贈った。この一発で勢いづいた日本は3位決定戦でジャマイカを4−0と全く寄せ付けない快勝でリベンジを果たしました。
今夏にもスペインを第1希望に欧州移籍を目指すが、公式な進展はない。「これがいいアピールになった。移籍には運も必要だけど、正直な話、もう日本に帰りたくない」。何やら西沢選手の身辺はにぎやかになってきた感じです。「代表もセレッソも決定力不足といわれたけど、ある程度結果を出せました」。今月18日に24歳。日本代表のエースを狙う西沢選手は、一気に世界舞台に名乗りを上げました。
2000/6/10
スポーツコラム 【49話.フランスプロリーグに挑戦 吉田義人】
ラグビーのフランスプロリーグに挑戦する元日本代表BK吉田義人選手(31=前伊勢丹)が15日、都内で会見、日本人初の1部入りを狙っていることを表明しました。15日に記者会見した吉田選手は「フランスで新しい未来をつかみたい」と夢を語った。
かねてから海外挑戦の希望を持っていた吉田選手は今年1月末、伊勢丹の今年度限りのリーグ戦からの撤退が明らかになったことで、周囲のすすめもあって踏み切ったそうだ。挑戦先には、バックスの独創的なランニングプレーが特徴のフランスを選んだ。先月末で伊勢丹を退社、21日に渡仏して、現在フランス選手権1部リーグ1組で2位のコロミエなど数チームのトライアルを受ける。その中には、国内最高峰の1部(24チーム)3、2部(20チーム)1で現在、1部グループで2位のコロミエも含まれている。「コロミエはBK主体のオープンラグビーで、ウイングを探しているらしい。評価を得たい」と話す。
以前から海外挑戦の夢を持ち、伊勢丹の今季限りでの解散が後押しした。「チャンスととらえた。1度すぎたチャンスは2度と戻ってこない。年齢は意識していない」と決意したそうです。「ラグビーは経験も大きい。体力だけでなく、精神的にも知識の面でも、今がベストの状態」と強調。ウエートトレーニングの成果で、体重は英国などで高い評価を得た1991年第2回ワールドカップ(W杯)時よりも5キロ以上増えているという。
吉田選手は主将を務めた明大で大学日本一。日本代表WTBとして、89年にスコットランド選抜を破った歴史的試合で先制トライを奪うなど大舞台で何度も勝負強さを発揮。92年にはニュージーランド(NZ)協会100周年記念試合でNZ代表オールブラックスと戦う世界選抜に招かれ、持ち味のダッシュでトライを奪ってラグビー王国のファンにも絶賛された実力の持ち主。筑波大大学院でスポーツ経営学などを修めただけに、目的は幅広く「フランスは一人ひとりが創造的なプレーをする。また、地域社会に根差している現地を体験して、将来日本に貢献したい」。第4話で紹介した村田亙選手(32)に次ぐ日本人プロラガー2人目、日本人選手初の1部入りを目指して21日渡仏。
とうとう。という感じですね。伊勢丹がリーグ戦から撤退ということで、その後に注目してましたが、プロリーグに挑戦。
31歳ならまだまだやれます。今後の活躍に期待しましょう。 2000/5/21
スポーツコラム 【47話.1万メートル優勝、五輪代表確実! 弘山晴美】
陸上のシドニー五輪日本代表選考会を兼ねた水戸国際大会は5月7日、水戸市立陸上競技場で、19種目の決勝が行われました。女子1万メートルは、マラソン代表に挑戦して落選した弘山晴美(31=資生堂)選手が残り2000メートルで一気に後続を突き離し、31分59秒60で、2位以下に大差をつけて快勝。3月13日のマラソン代表落選から55日。悔しさをバネに、一時は引退もチラつくどん底からはい上がり、女子1万メートル代表の座を確実にしました。
トラックの女王が、マラソンで味わった代表落選のショックから復活!同五輪に出場することが確実になりましたね。過去の実績と合わせて代表の座は文句なしでしょう。
回り道をした末の目標達成には、夫でコーチの勉さん(33)や、ライバル選手の励ましが大きな支えとなっていた。レース後、先に涙を流したのは勉コーチの方とか。「最近、泣いてばかりですね。でも、きょうは、うれし涙ですから」。これまでの苦しい道のりが、夫の胸を覆った。弘山選手は「勝つことだけを考えていた。精神的に落ち込んだこともあったけど、ここまで来れました」と、肩の荷を降ろした表情だった。
今年1月の大阪国際マラソンで、日本歴代3位の2時間22分56秒をマークしたが、リディア・シモン選手(ルーマニア)に一歩及ばず、2位。3月13日の日本陸連のマラソン代表選考会議では、残念ながら落選しました。一万メートルの代表なら昨年秋に内定をもらえるもチャンスあったが、それを振り切ってマラソンに挑戦していただけに、その悔しさは容易に想像できます。
一万メートルの代表獲得を宣言して、3月下旬に渡米。コロラド州の高地、ボルダーで合宿を始めたが、最初の10日間の弘山選手は、精神的な落ち込みで、ほとんど練習ができない状態。「疲れた。もう、(五輪挑戦は)やめたい」。そんな言葉ももれたとか「抜け殻状態」だったと勉コーチ。
「僕に言葉をかけてほしいのだ、とわかったが、わざとらしい激励はあえてしなかった」。
弘山選手の意思の強さを信じてプレッシャーをかけず、精神状態に合わせてメニューを組み直すことで、意欲の回復を待ったそうです。すばらしいチームワークですね。
再起のきっかけは、周囲の励まし。日本の実業団選手から「あなたたちだけの問題じゃない。(五輪に)行ってもらわないとわれわれも気が済まない」と言われた。大阪で敗れたシモン選手からの励ましも大きかった。同じ合宿地に来ていたシモン選手は、食事をともにする機会を設けて、温かい声をかけてくれた。「五輪には、絶対に出場して。あなただけの問題じゃない。あなたがあきらめたら私が寂しい」「シドニーで会いましょう」と。。。
周囲の温かさに包まれて、4月初め、弘山選手は目覚めたように意欲を取り戻した。後は、予定のメニューをこなすだけ。力は蘇った。
弘山選手は「マラソンをやったのは、マイナスじゃなかった」と話し、勉さんは「メダルを目指し、質の高い練習をする」とシドニーを見据えた。五輪では、苦しんだ経験をプラスにして、メダルを狙います」。見守る夫を横にして、弘山選手から力強い言葉も出ました。
「世界選手権のような追い上げる展開でなく、五輪では前の集団の中で戦いたい」。ラストの切れ味は世界トップクラス。残り1000メートルまでの走力を勉コーチと磨いていく。
それにしても、1ケ月足らずでしっかり調整できる能力は他の選手を見渡してもいませんね。激動動の55日間を乗り越え。遠回りした末、栄光へのきっかけを再び夫婦でつかみました。大阪で流した悔し涙が、水戸で喜びの涙に変わり、そしてシドニーでは歓喜の笑顔に変わってほしい。 2000/5/14
スポーツコラム 【46話.引退を決意。充実感あり、未練なし 古賀稔彦】
1992年バルセロナ五輪、柔道71キロ級で金メダル、世界選手権でも3度優勝し「平成の三四郎」とよばれた古賀稔彦選手(32=慈雄会)が25日、熊本市内で記者会見し、「競技者ではなく、一人の柔道家として道を歩んでいく決意をした」と話し、現役引退を正式に表明しました。四大会連続の五輪出場を目指した古賀選手は今月2日の全日本選抜体重別選手権81キロ級で1回戦負けし去就が注目されていました。
4度目の五輪代表入りに失敗し。それでも、即座に現役引退は決断できなかった。「自分で次の自分を選びたい」と揺れた。今月12日には「柔道をしたい気持ちが出てきた」と稽古まで再開したが「現役に未練があるわけではない。次に目標が決まれば、その目標に向かっていく」とも発言していた。
スーツ姿で会見場に現れた古賀選手はすっきりとした顔つきだった。心境を問われ、「アトランタ五輪で敗れた後の4年間は充実した柔道人生を送れて幸せだった。シドニーを逃したのは残念だが、腹いっぱい競技者をした。未練はない」と話した。2日の選考会当日から引退がささやかれていたが、自分の納得する形で結論を出したかったため、時間がかかったそうだ。結局、気持ちの整理をつけるまでに2週間。先週末には関係者に引退の意思を報告。母愛子さんは「きのう(23日)夜に本人から、もしかしたら現役をやめることになるかもしれないと電話がありました」と明かした。
最終的に決断したのは約2週間前。家族との語らいの中で決めたとか。。。
今後について「柔道は僕にとって教科書。ページをめくるたびにいろんな質問が出て、自分で挑戦したくなった。僕を必要としてくれる人がいれば、柔道を通してお手伝いしたい」
「私の美学でもあった自分の得意技で一本勝ちできる選手を育てたい」と意欲を示した。
所属はこれまで通り社会福祉法人の慈雄会に置く。重圧のかかる選手から離れたわけですが、早くも第2の柔道人生には意欲満々のようです。
思い出の試合としては、けがをおして金メダルを獲得したバルセロナ五輪ではなく、初の世界王者になった1989年世界選手権と「初めて試合の怖さを知った」として初出場の五輪で敗れたソウルをあげた。あの豪快な背負い投げは、もう見られません。90年代の日本柔道界を支えてきた「平成の三四郎」が、現役生活に区切りをつけました。
古賀選手は1988年ソウル、92年バルセロナ、96年アトランタと3度五輪に出場。切れ味抜群の背負い投げを武器に、バルセロナでは金メダル、アトランタでは銀メダルを獲得。日本が世界で勝てなかった期間、五輪舞台で結果を出して日本柔道界を支えてきました。強いこだわりを持つ五輪への道が絶たれ今、引退を決意ましたが、本当に長い間ご苦労様でした。 2000/4/30
スポーツコラム 【45話.V10!3度目五輪出場を決める 田村亮子】
全日本女子体重別柔道選手権。48キロ級の田村亮子選手(24=トヨタ自動車)が10連覇を達成し、3度目の五輪代表に選ばれました。痛めた左手小指、右手薬指は六分程度の回復というが、筋力アップした下半身を生かした足技で攻め勝負強さを発揮。今後はプロ野球投手に似た手、指の筋力トレを行い、シドニー五輪で悲願の金メダルを目指す。
昨年12月に痛めた左手小指、先月の右手薬指。田村は両手とも小指、薬指を一緒にテーピングして、相手のえり、そでをつかみ手首を返した。この大会に出場して五輪代表になりたかった。ケガをしていても勝てる自信をつかみたかった。
傷ついた両手で強行出場。大会10連覇、逃げてしまいたくなるような重圧。それでも耐えて、自分を出し切って「五輪街道」を一歩一歩(再び)歩いていけるのはすごい。3度目となる五輪代表を堂々とつかみ取った感じです。
「本当は出られる状況ではなかった。実際痛かったです」と話した。患部は6割程度の回復というが、パワーアップした下半身で繰り出す足技で倒した。約1カ月の脚力中心のトレーニングで筋力がアップ、いつも48キロジャストの体重は一時、52キロに増加した。「力負けしなかったですね」。国内試合114連勝、対日本人戦は94連勝、アトランタ五輪後4年間無敗の49連勝の自信を胸にいざシドニーへ!
今年の3月中旬、田村は横浜にあるトレーニングジムの門をたたいた。横浜ベイスターズの数選手が通うジムで、手、足首をはじめ指などの細かい筋肉も鍛えられる。「(元横浜でMLBマリナーズの)佐々木さんも来ていたし相談しやすい」と個人契約を結んだ。プロ投手にならったパワーを指につけていくそうだ。
日々の練習や努力の中で、それぞれの瞬間に「自分のベスト」を高密度で体験しているから、恐怖に負けないでいられるのだろう。心の強さは、やっぱり日々の汗が基盤だと思います。田村選手の明るく、楽しく、精いっぱい生きている姿が、まわりの人々にまで影響を与える。彼女の周囲には、笑いが自然に発生する。ほんとに、すごい選手です。
「シドニーの金が見えるか」。この問いに、今階段を上っている途中。目には、はっきり見えているが、手は届いていない。残り7カ月。心を一番大事にしていけば結果はついてくる。彼女はこう答える。
現在の田村選手をうまく表現した情報に遭遇した。「目の前に巨大な姿を現しながら、近寄ると逃げられ、追いかけると消えてしまう。そして、気がつくと悔しさ、後悔の念ばかりが残っている。天才が、ただ1つ征服できない頂がそこにある」。「皆さんは3度目の正直というが、私にとってはそうじゃあない。1大会ごとにベストを尽くす。だから今度のシドニーも、初出場のつもりで行く」。
最高でも金、最低でも金が目標。2000年という区切りの年は、柔道人生でも新しいページの始まり。アトランタの失敗は、柔道の技量の差ではなかった。「勝ちたい」という気持ちが強過ぎて、自分を見失っていた。そのことが、分かったいま、シドニーへの「光」が見えてきた。と話す。惑わされるのは、もう終わり。金メダルは「幻」ではないはずだから。。。9月16日の本番に向け。3度目の五輪舞台、金メダルへのカウントダウンが始まった。 2000/4/16
スポーツコラム 【特別編.センバツ初優勝、甲子園で進化した東海大相模】
第72回全国選抜高校野球大会は、神奈川県代表の東海大相模が初優勝した。センバツでは過去二度、準優勝に輝いていたが、今大会では青年監督率いる新生東海を強く印象づけて紫紺の大気をつかんだ。おめでとう。
「優勝を目指す」。主将の菊池一也選手は力強くそう誓って甲子園に向かった。昨秋の関東大会を制し、「東の横綱」としての候補の一角を占めていたチーム。優勝宣言はそのプレッシャーをはね返す意味のあったのだろうが、言葉通りに全国の頂点を極めるのは大変なことだ。勝因の第一は、エースの筑川利希也投手、菊池捕手のバッテリーを中心とした攻撃的守備力といっていい。
決勝戦の強豪・智弁和歌山戦で見せた内野陣の鋭い出足、俊足外野陣の幅広い守りは、何度もチームの危機を救い、エースをもり立てた。かなめである筑川投手の粘り強さは特筆される。全五試合に先発し、決勝戦を含む四試合で完投した。準々決勝からは三日連投で、細身の体のどこにそんなスタミナがあるのか不思議に見えた。ウエイトトレーニングの筋力アップに加えて、酸素を薄くした高地式トレーニングルームで心肺機能を鍛え上げたという。粘りはまた投球術にも表れていた。スライダーを武器に奪三振の山を築いていったが、ピンチに強打者を迎えたここぞの場面ではストレートで徹底して押した。強気こそ、投手に最も必要な要素だ。的を絞らせない配球の組み立ては見事で打者心理を読み取ったバッテリーの勝利ともいえた。
攻撃も積極的だった。「無安打で1点をとる」野球は、緩慢なプレーのすきを突く果敢な走塁にも見られた。一塁走者が中前安打で一気に三塁を陥れる、あるいは三塁走者が前進守備の内野ゴロでも本塁を突いた。一方で、決勝戦では五つの送りバントをすべて成功させ、うち四度、得点に結びつけた。バントで走者を得点圏に送れば、一打で点に結び付き、同時に相手にプレッシャーをかけることにもなるという高校野球のお手本だ。
だが、初戦では外野の位置取り、ベンチの指示、配給などちぐはぐな場面が目についた。それが、一戦ごとに修正されていった。チームとして育ち盛りの春とはいえ、甲子園の大舞台で「進化」していくさまは、見ていてほれぼれした。
進化の背景には、投攻守に絶えざる反復練習があった、とみる。それも単純な練習であればあるほど、きちんとした目標を立て、全員が納得して取り組まなければならない。でなければ、試合で急に課題や反省点を指摘されてそれができるほど野球というスポーツは甘くない。東海を頂点に押し上げたのは、正確な状況判断と、攻守にわたり「一歩前へ」という積極的な姿勢がナイン、ベンチに一体としてあったからだ。
筑川投手が優勝インタビューで「春は夏に向けての通過点」と言い切った言葉に、それが表れている。 2000/4/08 (神奈川新聞からの抜粋。) トップページへ!
「一歩前へ」それはプレーはもちろん、気持ちも前向きということだろ。それが積極的な姿勢へと変わり、ベンチでの一体感を作りだしたのだと思う。「単純な練習であればあるほど、きちんとした目標を立て、全員が納得して取り組まなければならない。」なるほど、基本がしっかりしたチームに映るわけだ。どこでもやっている練習なのかも知れないが、一味違うと感じるのは何故だろう。「通過点の春」夏も期待感でいっぱいです。 Wata.
スポーツコラム 【44話.抜群の制球力、精密機械狂いなし 小宮山悟】
横浜ベイスターズに、異彩を放つベテランが加わった。千葉ロッテから移籍してきた小宮山悟投手(34)です。ロッテ時代は、独自の野球観や調整法をめぐって、首脳陣や球団と何度も対立した小宮山投手。昨年10月、FA宣言直前にロッテから戦力外通告を受け、権藤監督の「あいつを使いこなせるのはオレしかいない。投手陣の重しになってもらいたい」という"ラブコール"にこたえて横浜入りを決意した。
7球種を使い分け、12球団1の技巧派との評価が高い。球界一の頭脳派投手といわれ、開幕投手を6度も務めている小宮山投手。その豊富な経験を生かし、独特な存在感をみせている。
4月4日は、今年最初の「神奈川デー」でした。甲子園では東海大相模高が選抜初優勝を飾り、広島では横浜ベイスターズが1979年以来21年ぶりとなる開幕4連勝を記録。巨人に2勝1敗と勝ち越し、いい波が来ている広島の勢いをぴしゃりと断ち切り、勝利をぐっと引き寄せたのが先発した小宮山投手でした。この日の最速142キロの直球と、多彩な変化球で巧みなピッチングを披露した。
「広島は自分を変化球投手だと思っているから、直球で押すところは押すと、話していた」
という技巧派右腕の狙い通り。その投球術と精密機械の異名を取る正確な制球力は、"手のひらで転がす"といった調子で、広島打線のタイミングをことごとく狂わせた。終わってみれば被安打7、11奪三振と小宮山投手の一人舞台。終盤から降り出した雨も気にかけず、「初登板より、連勝を止めないかが気になっていた」という心配も取り越し苦労。敵地に乗り込み、緊迫した試合をものにした。もはや勢いだけでは片付けられない風が、横浜の開幕ダッシュを後押ししている。
宜野湾キャンプ入りした日に、スコアラーから十五本のビデオを渡された。横浜対セ・リーグ各球団の映像で、同じ右投手の斎藤隆、川村、三浦投手が登板した試合。それを「部屋でエンドレスに流し、イメージを頭に埋め込んでいる」という。ビデオ研究のために1人部屋を要求したという。イメージトレーニングにVTRを使う人は多いですね。
「メジャー式」と「精神野球」の融合、2人の監督に影響受けた。小宮山投手に影響を与えたのは、早大時代の恩師・石井連蔵元監督と、95年にロッテを指揮したボビー・バレンタイン監督の2人。「典型的な精神野球」という石井監督の野球と「自分をリラックスさせてくれた」というバレンタイン監督のメジャー式野球が「対照的だからミックスできる」と小宮山投手の中でひとつになり、独特の野球観を生み出している。この二人を語るときの小宮山投手は雄弁だそうです。
「精神野球を否定するつもりはサラサラない。早稲田での四年間があったから、いまの自分の考えが生まれ、バレンタインとも共鳴できた」と話す。石井監督の教えが精神的な支柱となり、自主性を重んじるバレンタイン監督の影響で、トレーニング法や調整法を独自に編み出してきた。その独特な存在感が、いま横浜で必要とされている。
横浜の選手の印象を、みんなが笑顔で迎えてくれるので救われたと語る。ロッテでの10年間で「優勝に飢えていた」と、優勝を狙えるチームに来て、笑顔で動き回る姿が目立つ。「このチームの力は12球団でもトップレベル。個々が力を出し切ればぶっちぎる可能性すらある」。しかし小宮山投手が、V奪回のカギを握っていることは間違いなさそうですね。 2000/4/05
スポーツコラム 【43話.常識破りのトレーニング法導入
塚原賢治】
2000年春を迎え、球界に13番目のチーム「湘南シーレックス」が誕生しました。横浜ベイスターズのファーム(二軍)が横須賀を本拠地にして、大リーグ流に独立。大堀隆球団社長は「一、二軍にこれまで以上に距離を置き、昇格して初めてベイスターズのユニホームを着られるようにする」と、若い選手に
意識改革をもたらし、さらに地域との密着やアマ球界との交流も目指しています。すでに、地元自治体やサッカーJリーグ二部(J2)の湘南ベルマーレと交流、県内企業との提携が実現するなど、球界初の試みに注目が集まっています。
二軍は勝つことだけが目的ではない。だがここ数年、一軍に選手を送り込むことがほとんど出来なかったことも事実。だから、シーレックスの狙いはズバリ「意識改革」。一、二軍の差を明確にすることで「プロに入っただけで満足してしまっている選手たちに、ハングリー精神を植え付ける」。チームを指揮する日野茂監督は「シーレックスのユニホームは着たくない、という気持ちをどれだけ選手に持たせられるか。その気持ちが熱い戦いを生んで、イースタンでの優勝も狙えるはずだ」と意気込む。現場の意識改革はすでに始まっているようです。
その中の一つ、常識破りのトレーニング法を導入。湘南シーレックス誕生と同時に、現場の改革も始まった。「前からいろいろやりたかったが、今なら何でもやれる雰囲気がある」と塚原賢治トレーニングコーチは熱っぽく話す。「リハビリや故障の予防法、疲れの取り方などもいろいろ試したい」と、意欲的。手始めに今季、選手たちは毎朝6時半からトレーニングに励むことになった。「野球で常識的なことをやっていてはいけない。常識を否定するところからすべてが始まる」と力説する日野監督と「成長ホルモンを1日に3回分泌させることで、筋肉がより成長する」と説明する塚原コーチの考えで、すでに昨秋から取り組んでいるそうです。
1.六時半に起床。プロテインを摂取して一時間のウエートトレーニングを行う。
その後の朝食では「食事量が飛躍的に増えた」と塚原コーチ。「食後に仮眠すれば、
食べたものがよく吸収される。相撲界では常識だ」という休息で最初の分泌。
2.午前十時からの練習で「完全に目が覚めた状態でアップに臨める。けが人が減った」
と日野監督。昼食後も練習は続き、夕方の休息で2度目の分泌。
3.夜間練習と夕食。そして、睡眠中に最後の分泌が起こるという。 |
当初は、選手から「早朝はつらい」「練習前に疲れてしまう」などと戸惑いの声も出たが、春季キャンプ中には体が慣れてきた。塚原コーチは、ローズがナイターの日の午前中にウエートに取り組んでいるのを引き合いに出して「デーゲームの多いファームの場合は、逆算すれば早朝になる」と、選手に説明したという。
さらに「筋肉との「対話」をさせるために」練習前のストレッチ中の私語を禁止。その日の体の状態を把握することで、日によってばらつきがあるコンディションを一定に保ち、年間の好不調の波を小さくする。「一軍の選手は波が小さい。精神状態を把握することはメンタル面の強化にもなる」と、十年以上のコーチ生活で考えてきたことを実践に移しているようです。「結果が出れば、選手もその気になってくる」と日野監督。一年後に、どんな成果が出ているのでしょう。楽しみですね。 2000/3/28
塚原賢治(つかはら・けんじ) 1964年生まれの35歳。東京都出身。
豊明高から日体大を経て、90年に横浜大洋(現横浜)に入団。
選手経験はないが、トレーニングコーチとしての熱心な指導には定評がある。
東京都世田谷区に妻・優子さんと暮らす。
スポーツコラム 【42話.シドニー五輪の金メダルが見えた!大本命 高橋尚子】
シドニー五輪の最終代表選考会を兼ねて3月12日に開かれた名古屋国際女子マラソンで、高橋尚子選手(27=積水化学)が自身が持つ日本最高記録にあと32秒と迫る2時間22分19秒。シドニー五輪代表の座を確実にする快走でした。
序盤こそ自重したが、23キロすぎからスパートし後半もハイペースを守り歓喜のゴール。文句なしの走りで、13日、日本陸連の理事会、評議員会で女子マラソンのシドニー五輪代表に正式決定。女子では高橋選手と山口衛里(27=天満屋)選手が選ばれ、市橋有里(22=住友VISA)選手とともに「最強トリオ」が誕生。日本女子マラソン界悲願の金メダルを視界に入れました。
ゴール後のインタビュー台の上。さわやかな表情の高橋選手と、満面笑みの小出義雄監督(60)。優勝者は、そのあかしである月桂冠を外し、白髪まじりの監督にかぶせてみせる。「風も気持ちよかった。水も気持ちよかった。そして応援も……」と42.195キロの距離を涼しげに振り返る。小出監督は「幸せだね僕は。こういう選手と巡り合えるんだから」と教え子の底力をたたえた。
高橋選手は1995年、大阪学院大から小出監督が当時監督を務めていたリクルートに入った。監督の指導力を慕い、同社の北海道合宿に押し掛けていって自らを売り込んだ末の入社だったそうです。それ以来の師弟関係。97年には監督の積水化学移籍について、自らも移籍した。3000メートルまでの種目が適性と思いこんでいた入社当時から「お前さんは、ロード向きだよ。マラソンで世界一になれるよ」と声をかけたのは同監督。体の前で回転させる独特な腕の振り、ずっと注意されていた。それを「いいよ、それが合ってるんだ」と初めて言ってくれたのも同監督だった。ほめて育てるが小出流ですね。
2年前の名古屋で当時の日本最高の2時間25分47秒をマーク。同年バンコク・アジア大会では2時間21分47秒という驚異的記録を出した。実績は自信を生む。だが、決して楽ではない最終選考会への道のり。昨年8月のセビリア世界選手権を左足の故障で欠場したショックは尾を引いた。帰国後、手首の骨折もし、上半身の筋力が落ちた。直前の鹿児島・徳之島合宿では食あたりで緊急入院もした。アクシデント続き。そこでも小出流の大胆な調整法が効いた。2月20日過ぎ、それまで持っていた練習スケジュールを「捨てた」。そして徹底的に休ませたそうです。「顔色をみて決めたんだ。調整法なんていい加減だよ。これが正解なんてもんは、ないんだから」。これを聞いて私の「スポーツ語録&名言集」でも紹介した、以下の言葉を思い出しました。
『いい練習を見つけるため、いま世間でやっている練習とは違ったものを
模索する。もしかしたら「非常識だ」といわれるかもしれません・・・
非常識な練習が正しければ、結果は出ます。
結果が出れば、それが常識となっていくのです。』 |
体調は8割程度まで戻った。それでも、失敗すれば五輪はない。普段、陽気な監督が「追いつめられていた」と告白する。有森裕子選手をバルセロナ、アトランタ両五輪で銀、銅メダルに導いた実績を持つが「五輪よりも緊張した」という。レース前夜から一睡も出来ず、朝を迎えた。「何としてでも高橋をオリンピックに出さないと」と悩みに悩んだ。だが結局、高橋選手自身を信じることしかなかった。「お前に任せた」とだけ指示した。信頼にこたえ、教え子は鮮やかにゴールテープを切りました。「疲れより、今年もう1本走れるんだといううれしさの方が強いです」とはにかむ姿に。まだまだ伸びる予感を感じさせます。
その潜在能力を100%出し切ったときに一番欲しい色のメダルが手に入るはずです。
2000/3/20
スポーツコラム 【41話.努力したやつが勝つと思っている
上原浩治】
昨年、セリーグ新人で20勝をマークして最多勝、新人王、沢村賞などのタイトルを獲得した読売ジャイアンツの上原浩治投手(24歳)は大阪・東海大仰星から一年浪人して大体大に進学。1999年ドラフト1位で読売ジャイアンツへ入団しました。
中学では陸上部で、硬式野球を始めたのは高校から。高校二年の秋からレギュラーになり、センターで一番を打っていました。全然打てなくて、野手としては並以下。エースに建山投手(日本ハム)がいたが、三年の春から投手も始めた。
先発はないが公式戦で何試合かは登板した。「投手をやろうと決心させてくれたのは高校時代ですね。自分が中心になれるし、迎えたら気持ちがいい」。それで大学でもやってみたいという気持ちになったそうだ。三年の時に大阪府大会でベスト8まで進出、それが最高。プロになりたいなんて、これっぽっちもなかった。ただ野球が好きだったし、やり残したことがある、という気持ちで大学を目指しました。
高校ではやらされる野球だったので、大学では野球を楽しんでやりたかった。でも甲子園に出たやつには負けたくない、というのはあった。その気持ちが今の自分を作っていると思う。甲子園に出たやつはそこで満足してしまう選手が多いですからね。スタートが出遅れているから、他の人よりたくさん練習しないと追いつかない。50メートルを10本走るところを11本走ったり。みんなと一緒のことをしていては伸びるわけがないですから。
大学四年の時、母校に教育実習に行って、野球部に顔をだし「練習は裏切らない」という話をした。結局は努力したやつが勝つと思っているので。。。その時の一年生が今度の選抜に出場します。
今の高校球児には、甲子園がすべてではない、と言いたい。甲子園で野球が終わるのではなく、大学、社会人でも野球は出来る。どこかの広場でかも知れないけれど、そうゆう野球も楽しいと思う。自分が楽しいと思える野球をやってほしい。三年間しかないですからね。
スポーツの楽しさを広げるためのキーワードが潜んでいるお話だと思います。さて後輩達は第72回センバツ高校野球大会では、どんな熱戦を見せてくれるのでしょうか。
2000/3/12
スポーツコラム 【40話.英国オックスフォード大に留学 淵上宗志】
大学ラグビー屈指のSOで、関東学院大学主将の淵上宗志(4年=佐賀工)選手が英オックスフォード大学への留学に挑戦することになりました。渕上選手はラグビー部のない企業に就職が内定していたましたが、オックスフォード大からの誘いを受けて留学を決意。「外国でやるのはすごい経験になる。チャンスを生かしたい」と話しています。
大学でラグビーを終えると明言していた学生一のスタンドオフ(SO)は、だ円球の道を再び歩むことを選んだ。目指す先は英国の名門オックスフォード大学。海外でさらなる飛躍を期待したいです。
1月14日。慶大との大学選手権決勝の前日。「決めていません。やるなら仕事かラグビーか一つの方向に力を使いたい。」。その翌日、完敗。この敗戦が迷う気持ちを変化させた。大学四年の春に悩み始めた。「続けてやりたいと思う場所がない」。
選手生命は長くない。社会人としてラグビーを続け、やめたとき、逆にラグビーをやっていたことがその先の障害になると思った。「現在の社会人の状況は酷(こく)過ぎる気がする。ラグビーをやるのか、仕事をするのか。中途半端だ」。企業スポーツを取り巻く環境は厳しい。将来を必ず約束する会社はない。それならば「一番だと思っている」大学ラグビーが終わったときにやめようと、一時は決心した。
シーズン中には大手レコード会社の内々定を得た。「ラグビー以外に新しいやりがいを見つけたかった」学生屈指のSOの決断は波紋を呼んだ。本人も小学生からやってきた思いは簡単に捨てられなかったのでしょう。「忘れられない一戦」と位置付ける明大戦の試合後、明大主将の斉藤選手に「やめるなよ」と言われた。
周囲からの声は予想以上に多かった。そして慶大の敗戦。「百パーセント楽しんだ」はずの大学四年間。唯一のくやしさが残った。「あそこで勝っていればやめていたかもしれません」「負けた悔しさがあって続けたい気持ちになった」。
2月、内定していたレコード会社の人事担当から「悔いが残るのならラグビーをやった方がいいのではないか」との話を受ける。これで揺れていた気持ちが固まった。
「プロ化すればいいという人もいる。けどそれは分からない。ただ自分がやるからには自分のやりやすい環境をつくっていこう、変えていこうという努力はしなければならない」。
日本と世界との差。それは環境の違いでもある。だからこそ英オックスフォード大の誘いを受けた。「勉強になると思う。自分一人の力では難しいかもしれないが」、チャレンジすることは決意した。「とりあえず何でも挑戦してみたい。ただ行っただけにはしたくない。海外プロもチャンスがあれば」その言葉に、もう迷いはない。
淵上選手は「ラグビーを仕事として正当に評価してもらいたい」との思いから一時はプレー続行を断念しました。幸いにも理解を示す企業も現れ、話し合いの場をもっていましたが、最終的に海外留学を選びました。「ただ行っただけにしたくない」。ラグビーを続けることを決断し、オックスフォード大留学を目指す。普段は物静かな印象を受けるが、試合や練習中の闘志はすさまじいとか。あの切れ味鋭いプレーがまた見られることになり、ファンの一人としてすごくうれしいです。 2000/3/05
スポーツコラム 【39話.メジャートレーナーの権限 江川靖】
米大リーグ、シアトル・マリナーズへ移籍した佐々木主浩投手(31)の専属としてチームに帯同する江川靖トレーナー(41)が故障を持つメジャーの主力選手の間で引っ張りだことなっているようです。「メジャーのトレーナーは進歩している」と日本では良く言われます。が、江川氏は「技術的には日本のトレーナーも決して見劣りしない」と話す。実際、右肩に違和感を訴えるガルシア、首痛のマルチネスが、自主トレの練習終了後に必ず江川氏の治療を受けにくるそうだ。
メジャーでは電気治療が一般的。メジャー選手からも高い評価をもらい「マッサージ技術は日本のトレーナーの方が上ですね」と自信満々。だがメジャーと日本とでは、あきらかに違うものがある。それはトレーナーのもつ「権限」の違い。「メジャートレーナーの権限はある意味で監督よりも強いそうだ。これは日本とは比較にならない」と。メジャーの場合、トレーナーにはチームドクターと同様の権限が与えられ、故障した選手がいた場合「トレーナーが出場は無理」と判断すれば、チーム状況がどうあれ、監督は起用しない。
昨年17勝を挙げたガルシアに対し、江川氏が自主トレ中の「投球ストップ」をかけたところ、視察の首脳陣もすぐに了承した。この素早い対応には江川氏も驚いたといいます。さらに佐々木投手に異常が生じた場合には、すぐに「ストップをかけろ」と指示されている。そんな日米差に「日本のトレーナーは球団、首脳陣寄りに考えてしまうところがある。だから、いかに故障を和らげ、出場させられるかの発想になるのかな」と振り返る。
グリフィン・チーフトレーナーは「われわれは故障防止、リハビリに力を注ぐ。無理させ、故障を長引かせることはない。そんなことをすれば結果的にチームにマイナスになるからね」と話す。
主力であれば首脳陣は多少の無理は承知でも起用したがるのは当たり前。昨年8月に佐々木投手が無理した末に右ひじを手術したが、メジャー流ならば本人が痛みを訴えた時点で登板ストップがかかっただろう。と、江川氏は「日本のトレーナーも首脳陣にハッキリNOと言える立場にならないといけない」と切実に話しているそうです。
2月24日情報
佐々木投手は、時間、投球数に制限があるメジャー流の投球練習に「なかなか調整が難しいですね。マイペースで調整しても無意識のうちに全体の流れを気にしてしまう。」とペースを乱しかけていた。だが、この日練習前、以前から佐々木投手の状態を知る江川トレーナーからの「右足の軸足が折れ曲がりすぎ」とのアドバイスが効いたようで、佐々木投手はビデオでチェックし「左足を上げたとき、少し止める形にしたんです」とフォームを修正。この日55球を投げ「今日はいい感じになりました。納得できる形に近づいた」と感触を得たようです。
メジャーでもトレーナーは裏方の存在。でもチームの浮沈のカギを握っています。メジャートレーナーとして存分に実力を発揮してほしいと思います。 2000/2/27
スポーツコラム 【38話.高く、美しいエア鮮やか 三宅陽子】
スノーボードのワールドカップ(W杯)真駒内大会第二日(2月19日)、女子ハーフパイプ(HP)第8戦で三宅陽子選手(26=スポーツファンクション)が初優勝しました。
三宅選手は安定したエアと高さのある回転技を繰り出し予選を最高点で通過。決勝の1回目に38.0点をマークして快勝しました。
ハーフパイプの真ん中で、高く、きれいに、ゆっくり回った。「直前の練習では3回に1回しか決まらなかったので、ルーティンにいれるか迷った」という横1回転半スピンが鮮やかに決まり、初優勝をがっちり引き寄せた。TVニュースで見ましたが、ほんとカッコよかったです。過去のW杯の最高成績は12位。初めての表彰台で大きなトロフィーを抱え「気持ちいい。すごくうれしい」と感激に浸った。脚力がある。これは起伏の激しいコースを数人が平走して速さを競うスノーボードクロスで鍛えた財産。スピードに乗ったエアの高さは圧巻。安部HPコーチは「筋肉がしっかりしているので、ぎりぎりのライン調整ができるのが強み」と話す。
小学校4年から高校1年までは器械体操をしていたそうで。関大1年でスノーボードを始めプロを目指していた2年間の休学を経て昨年卒業。海外ツアーには今季から本格参戦しました。「これを弾みに、安定して勝てるようになりたい。そうすれば五輪も見えてくる」
現在のランキング1、2位を破っての優勝だが、プロツアーには、はるかに実力の高い選手がそろっているそうだ。三宅選手の視線はそこに向く。決勝の2回目に試みた横2回転スピンは、着地でミスしたが完成度が高く「今日よりもっとすごい技を五輪では見せたい」と話す三宅選手。今後の活躍が楽しみですね。
20日のスノーボードクロスでは5位に終わり「やられましたね、これは。すごく勝ちたかったのに」と悔いの残る結果。しかし、今季初参戦で、4戦すべて1ケタ順位の活躍に、三宅選手の時代はまだこれから、といった感じ。世界のトップへ周囲の期待はふくらむばかりですね。 2000/2/21
スポーツコラム 【37話.マカオ2年8ヶ月ぶり勝利で手腕高評価 上田栄治】
日本人指導者の評価が高く評価された。昨年12月にマカオ代表監督に就任した上田栄治監督(46)。もと平塚監督(現湘南)であの中田英寿選手(23=ローマ)をセリエAに橋渡しした人物として有名。日本サッカー協会から派遣でマカオに来て3ヶ月目。習慣と文化の違いに悪戦苦闘しながらも代表強化に取り組んできました。2月13日のアジア杯予選ではブルネイを1−0で破り、Aマッチ約2年8ケ月ぶりの勝利とのことでした。
「上田監督がマカオに勝利をもたらした」。14日付の地元紙では、ブルネイ戦の勝因が監督の指導力にあると分析。一夜明けたらヒーローとなりました。昨年12月8日、初めてマカオにやってきて「手ごたえはつかんだと思う」と、上田監督もこの1勝で強化のきっかけをつかんだようです。
同サッカー協会の要請を受け日本サッカー協会から派遣を打診された。成績不振が原因で平塚監督を辞任した直後のこと。マカオについての予備知識は何もない。困惑と不安。しかし拒絶はしなかった。「必ず役立つと思った」。
ここまでは異文化との闘いだった。全員が官僚や警察官などの職業を持っている。練習開始時間にグランドに集合できるのは多くて6、7人程度。残りはパラパラと遅れてきた。子供の誕生日を理由に練習を休む選手もいた。そんな選手たちに辛抱強く「日本流」を説いて行った。最近は大部分の選手が練習時間を守るようになった。
今大会に向けて、徹底してサイド攻撃を練習した。ボールを奪い、サイドに開いて攻める。日本代表が得意としている戦術だ。パスやトラップなどの基本的な技術レベルが低いが、選手達も意欲的に取り組み、ブルネイ戦では練習通り左サイドでボールを奪い決勝ゴールにつないだ。
契約期間は今年10月末まで。やりたいことは山ほどある。「選手をJリーグの練習に参加させたい。若いユース世代も強化したいね」。20日には日本大表に挑む。秘策はないというが「シンガポールのように、全員で守ることはしない」と、上田監督は日本のサッカーを体で感じさせるつもりのようです。
「決定力不足」といわれ続ける日本代表。うかうか、していられないですね。 2000/2/17
スポーツコラム 【35話.トラックからマラソンへ華麗なる転身! 弘山晴美】
トラックの女王・弘山晴美(31歳=資生堂)選手がマラソンへの華麗なる転身を遂げた。
大阪国際女子マラソン(大阪・長居陸上競技発着)は、残り約500メートルで「世界最強」のリディア・シモン(ルーマニア)選手に抜かれたが、2時間22分56秒で2位に食い込みシドニー五輪代表候補に名乗りをあげた。「見えざる敵」が、弘山選手の前に立ちはだかる。並走する世界最強のシモン選手ではない。2時間22分12秒(24話.でお話した山口衛里選手が昨年11月東京国際マラソンで出したVタイム)。シドニー五輪キップを確実に射止めるには、シモン選手をねじ伏せたうえでこの数字をクリアしなければならない。
「自分のリズムで走れっ!」勝負の37キロすぎ、歩道から飛んできた夫勉コーチ(33歳)の絶叫がGO!サインだった。勝負重視だけならトラック勝負に持ち込んだほうが得策。早めのスパートは五輪出場をかける弘山選手の執念の表われ。
だが、シモン選手の底力は神がかりに近かった。30メートル離した差をジワジワ詰められる。「最後まで持つだろうと思ったから、まさか・・・」「10メール差だゾ!」思ったほどストライドが伸びない。残り500メートルでついに並ばれた。一気に突き放すシモン選手の背中を追う弘山選手。だが自慢のトラックのスピードを引き出す力は残されていなかった。残念ながら2位でゴール。それでも電光掲示板は2時間22分台をしっかり刻んでいた。
20キロまで16分台(5キロ)を刻むハイペースにライバル達が次々に脱落するサバイバルレース。その先頭集団でリズミカルな走りを見せてくれました。「積極的に走れたし、タイム的にも全体的にも自分なりに頑張れて納得いきます」と表情を緩ませた。早めのスパートが結局裏目に出ましたが「結果論でしかない。悔いはない」と夫である勉コーチ。あとは言葉が続かなかった。勝負に悔いなし、結果は名古屋国際マラソンの後ですね。この走りをどう評価されるのでしょうか。。。
レベルが高い争いだけに複雑な思いがしますね。 2000/2/01
スポーツコラム 【34話.受験にも野球にも勝つ5ヵ条 遠藤良平】
日本ハムからドラフト7位に指名された、遠藤良平(23歳=東大卒)投手が1999年12月19日、受験生らを前に講演し「夢への5ヵ条」を伝授した。進学塾主催の講演会で、演題は「夢・選ぶ力」。予備校に通いながら1浪して東大(教育学部)に入学。そして日本ハム入りした遠藤選手ならではの体験をもとに、小学生から大人まで約300人に熱弁をふるいました。内容も「夢への5ヵ条」にまとめ。
1、遊ぶ時は遊ぶ(生活にメリハリを)
2、選択肢を広げる(失敗を恐れず何事にもチャレンジ)
3、自分を客観的に見る(冷静になって周りを見る)
4、自然体になる(素直に物事に臨む)
5、勝負どころで気持ちをぶつける(データを重視しながらも気持ちで負けない)
受験にもスポーツにも役立ちそうな5ヵ条ですね。
遠藤選手は「偉そうなものではなく、自分の場合はこうだったよ、というアドバイスです」と振り返った。定員200としていたが応募者が殺到、塾からホテルに写したほどの盛況。当初「偉そうな事は言えない」と固執していたが「いい機会を与えてもらった。自分を理解していないと話せませんから」と全力投球だったようです。
21日の筋力測定でも遠藤選手は新人7名のなかで最もバランスが良かった。「普通はある一定の角度だけ筋力が強いとか、左投手だったら左足だけが強いとか、波があるが非常にバランスがいいと。」と評価した。これは東大教育学部で身体教育学を専攻。「学部でやった事が役立っていると思う。速い球を投げる訳じゃないので、バランスが生命線ですから」と言う。あとは、いかに実践で力を発揮するかですね。
遠藤投手は東大から4人目のプロ野球選手です。 2000/1/22
スポーツコラム 【33話.大学ラグビー選手権三連覇ならず 関東学院大学】
三連覇ならず!。ラグビーの全国大学選手権決勝が1月15日東京・国立競技場で行われ、史上2校目の選手権3連覇を目指した関東学院大学は7−27で慶応大に敗れました。「継続のラグビー」関東大か、「魂のラグビー」慶応大か・・・。注目された一戦は、慶応大の早いディフェンスに、得意の多彩なバックス攻撃が封じ込まれた。後半に入っても流れは変わらず、後半の2分、22分とトライを奪われ、敵陣に攻め込んでも決め手に欠け、最後まで見せ場を作れませんでした。
慶応大は14年ぶり3度目の優勝。創部100周年に華を添えました。
攻撃は積極的でした。何度も相手陣内に深く攻め込むが「最後まで継続させて得点させるところまでいかなかった」「一歩及ばなかった」とは春口廣監督(50)の言葉。ただ、決勝まで勝ち上がったことは「誇りに思っている」と言う。渕上宗志主将は、この試合が慶応大と僕たちの差だと思う。ボールを継続できなかったので、点が取れなかった。自陣でやりすぎたのが反省。と、敗因を冷静に分析した。学生屈指の司令塔が慶応大の徹底マークに動きを完全に封じられました。「ただ、やれることはやった。悔いはないし満足している」と、主将らしいコメントを最後に残して、三連覇への挑戦は幕を閉じました。
選手には一生懸命やった結果ですから。胸を張ってほしい。そして、プレッシャーから解放された、真の「継続のラグビー」を来季は見せてほしい。 2000/1/16
スポーツコラム 【32話.日本の城から世界のジョーへ 城彰二】
サッカーのスペイン一部リーグ、バリャドリードへの移籍が決まった横浜F・マリノスのFW城彰二選手(24)が1月7日、スペインに向けて飛び立ちました。横浜F・マリノスのホームページでは「自分の夢でもあったスペインリーグに移籍することになりました」「一日も早くスペインで認められて試合に出て活躍したいい」と抱負を述べています。
スペインリーグを選んだ理由について「スピーディーで、激しさもある。僕の中では世界最高のリーグ。FWにとって魅力的だ」「とにかくワクワクしている」と意気込みを語った。バリャドリードへは6ヶ月のレンタル移籍となり、その後に完全移籍する場合の交渉優先権は同チームが保有するそうです。
スペイン1部リーグの特徴は何と言っても、テクニックを生かした攻撃的なサッカー。イタリア1部リーグ(セリエA)に比べ、激しさよりも華麗なイメージがあるそうだ。とはいえ厳しいリーグに飛び込むことは間違いない。
バルセロナのリバウド、レアル・マドリードのロベルトカルロスにラウル・・・。そうそうたる世界のスターがプレーしている注目度の高いリーグです。バリャドリードは選手層の厚いクラブではなく、得点力不足にも悩んでいるだけに、救世主となることを期待したい。早ければ16日の第20節から城選手のプレーが見られるかも知れません。
これでスペインリーグでプレーする最初の日本人選手となる。「海外挑戦」を望み続けて実現させた心意気を感じますね。7日夜にスペインに到着し9日にメディカルチェックと本契約を済ませた後、10日からチーム練習に合流する予定。いよいよ世界のジョーへの挑戦が始まる。「W杯を代表するエース・ストライカー」として、一回りも二回りも大きくなって帰ってきて欲しいです。 2000/1/11
スポーツコラム 【31話.なんとか踏ん張りシード権確保 神奈川大学】
新春恒例の第76回東京箱根間往復大学駅伝は往路トップの駒澤大学が復路も制し初の総合優勝を飾りました。往路で13位と出遅れた神奈川大は、復路4位と健闘し、総合成績8位に食い込み、来年のシード権(9位以内)を確保しました。
7区から「4,3,5,2」と区間順位を読み上げた大後栄治監督(35歳)は「これこれこれがうちのレースなんです」復路4位。往路13位から8位まで順位を上げ、来季のシード権を確保した。とは言え「これで満足じゃないですけれどね」本番まで残りひと月のコンディション調整の大切さを身をもって知った。5区林選手と6区起用予定の三村選手が風邪をひいた。「どこもしっかり練習を積んでくる。あとは体調の勝負。ちょっと悪いとゴロゴロと転がり落ちる」その通りの結果になりました。
激戦に拍車がかかった今大会。途中トップを奪ったチームが5校。復路で一斉スタートが2校と史上最低数。各校の実力差は確実に縮まっているようです。「5、6区以外は予定通りだった」4年連続山登りで好記録を連発し相性のよかったはずの箱根の山。しかし今年は、その聖なる地からの怖さを思い知らされた大会。突発的なアクシデントではなく、風邪という予防可能なことでブレーキを起こすのは悔いが残る。「力負けではないだけに悔しい」とは野間裕人主将。97年、98年と連覇を達成。プラウドブルーのユニホームはすでに強豪校のイメージを背負っています。
大後監督は「過去の栄光を捨て切れていない。このユニホームを着たとたん、普段の走りが出来なくなる」「神大に入りさえすれば強くなれるという勘違いもあった。これで鍛え直すいいきっかけになる」と21世紀への飛躍を誓った。結果は残念でしたが、この経験を良薬とし来季の雪辱に期待したいですね。 2000/1/7
スポーツコラム 【30話.天皇杯連覇、クールな主将 山口素弘】
2000年の第1回目は山口素弘選手からです。
昨年の正月の天皇杯全日本サッカー選手権決勝で天皇杯を高々と掲げた感動的なシーンから1年。消滅した横浜フリューゲルスを劇的なフィナーレに導いたMF山口素弘主将が、今回は名古屋グランパスの主将として”連覇”を目指しました。天皇杯は横浜F時代を含め、これで4度目の決勝。「相性がいいんじゃないの。気持ちとしては前回と今回は違うけど、三度目の優勝のチャンスだし、ものにしたよ」今季は今まで無冠と期待を裏切ってきただけに、タイトル奪取の好機にクールに燃える。横浜F消滅でGK楢崎正剛とともにリーグ制覇を狙える名古屋を移籍先に選んだ。監督交代などでチームが揺れ、昨年第1ステージ途中から経験を買われ、主将に就任。群馬県前橋育英高校時代や横浜F発足時からも主将を務めた人望の厚さで、選手とスタッフのパイプ役として、立て直しに力を注いだ。第2ステージ途中に鹿島アントラーズをJリーグ年間王者に導いたジョアン・カルロス監督が就任すると、チームに調和が生まれ、現在は公式戦10連勝。「選手に自信と粘りが出てきたのが大きい。まとまりがでてきた」と手ごたえを口にした。
妻子を横浜に残し独身寮で”単身赴任”を続ける背番号6は、今回もキャプテンマークを腕に巻いて2000年元日、国立競技場の舞台に立った。結果は広島相手に2−0の快勝でした。貴賓席の正面で山口主将が高々と天皇杯を掲げると名古屋サポータで真っ赤に染まったスタンドが揺れた。自慢の2トップが、ため息の出るような攻撃で2得点。大型補強で臨んだ今季最後でやっとタイトルを奪った。
横浜フリューゲルス時代と合わせ、天皇杯連覇した山口主将は「苦労したシーズンだったが、2000年のいいスタートが切れた。あとはリーグ制覇だ」と話した。公式戦11連勝、国立15連勝で、名古屋は新時代の幕開けを鮮やかに飾った。
その中心は、やはりクールな主将、山口選手でしたね。 2000/1/3
スポーツコラム 【2000年を迎えました。】
今年は、より充実したサイトを目指し努力したいと思っています。
みなさん、スポーツにトレーニングに頑張りましょうね! 2000/1/1